Jazzと読書の日々

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阿含経のテトラレンマ

たぶん自分しか興味がないことだけど、 覚え書きしておきます。

阿含経

『中論』の動画で十二支縁起が出てきたので 「そもそも原始仏教ではどう解説されているのだろう」と思い、 阿含経を読み始めました。

阿含経典。 ブッダの死後、弟子たちのあいだで意見が分かれ始めたので、 あらためてブッダが何を言っていたか確認する会議を開いた。 そのときの記録です。 古い形の仏教思想が保存されています。

もっとも2600年前でまだ文字に残す習慣のなかった時代なので、 みんなで集まって暗誦することで口伝した。 暗誦するうちにバリエーションが増えていき、 尾ひれが生えて話も長くなったり変形したりしています。

まあ、無印のガンダムが始まりだけど、 後日談とかパラレルワールドとか言っているうちに 巨大なガンダム・サーガが出来上がっちゃったようなものですね。 みんな二次創作が好きだから、集めると辻褄が合わなくなっていく。

さて、その中でどれがファースト・ガンダムかとなると 『雑阿含経』じゃないか。 これはスリランカに『相応経典』として伝わっていて、 19世紀から欧米で研究されるようになった。 ここをまず仏教の入り口としてみよう。

増谷先生の翻訳はそういう構成になっています。

ブーミジャ

で、十二支縁起のバリエーションが延々続くところを読んでいて、 おや、これは?というのに出くわしました。 「ブーミジャ」というタイトルのエピソード。

他の宗派のブーミジャさんからブッダの弟子サーリプッタが質問される。 これがテトラレンマになっています。

  1. 苦楽は自作(自己原因)だろうか
  2. 苦楽は他作(他者原因)だろうか
  3. 苦楽は自作でもあり、他作でもあるのだろうか
  4. 苦楽は自作でもなく、他作でもないのだろうか

当時のインド哲学の考え方はこの4つに分類できたらしい。 あなたの師匠ブッダはどの考えに属しますか。 苦楽の原因をどう分析しているのでしょう?

サーリプッタの答えは明快で「どれでもありません。触によるのです」。 つまり問いの立てかた自体が間違っている。 そこで思い間違いを起こしています、と答えた。

そう言われたブーミジャさんは怪訝に思い 「そんなの、他の思想家でも知ってます」と反論。 たぶん「触」とは「自己と他者が出会うこと」くらいの意味みたいです。 そりゃあ、出会わないと何も起こらないでしょうよ、と。

その反論に対しサーリプッタは 「もし触がなければ、そもそも何が原因かと考えないでしょ?」と指摘。 ブーミジャさんは呆気に取られ、どうも物別れに終わりました。

それを聞いたアーナンダが帰ってからブッダに尋ねる。 ブッダは答える、「サーリプッタの言った通りだよ」と。 そういうエピソードです。

テトラレンマ

この段だけ読むと、 テトラレンマは第4レンマ「Aでもなく、非Aでもない」が正しいわけじゃないですね。 ブッダはどのレンマも否定しています。

そうではなく、 その「問い」が生じる土台を考えなさい。 そう言っているように感じました。 ゲシュタルトの「地」に目を向けよ、と。

これがブッダのストラテジーのようです。 仏教のメインテーマ。 「この苦しみは自分のせいか、あいつのせいか」。 そういう苦悩に陥ったとき、 その考えかた自体の土台を見よ。 たぶんそれが八正道の「正見」なのでしょう。

ここだけ見ればブッダは「触→苦楽」の図式しか示していません。 縁起は2つだけ。 これが縁起論の原型だと思うけど、 似たようなエピソードの「外道」でアーナンダが追加している。 「触」がなぜ「苦」を産むかを説明するのに 「六処→触→受→愛→取→有→生→老死・愁・悲・苦・憂・悩」という長い連鎖を語り出します。

これが十二支縁起に発展したんじゃないか。 六処(五感と統覚)から始めて8要素しかないけど、 伝承の間に増えていったのでしょう。 『相応経典』には「六処について」のセクションもあるので、 そちらの考察も統合して12要素に拡張されたのだろうか。

すると十二支縁起は真に受けなくてもいいかも。 ただ「触→苦楽」だと「触が原因だ」と原因論に陥る人が出るので 「二項対立の土台を見よ」と反省したのかな。 反省の結果、受(感覚)→愛(渇愛)→ 取(執着)と「あいだ」が増えたのかもしれない。

こう見ると、ブッダは単純な因果論を否定していますね。 「何が原因か」という問いは、 何かを「結果」と見てから遡っています。 そして原因を暴くことに執着してしまう。 でも、原因が決着することはありません。 いつまでも堂々巡りになる。

まとめ

パルメニデスの「真理をわかったと思った瞬間それが思い込みになる」を思い出しました。 「触が苦楽を産む」。 それがわかった瞬間、今度は「触」を実体化して原因だと思い込んでしまう。 それに気づくことがブッダのストラテジーです。

じゃあ「無明があらゆる苦しみの原因だ」と考えるのも端的に間違ってるなあ。 「人類の帰りを喜べないなんて、私、どこか壊れたに違いありません」 と悩むヤチヨさんのように間違っている。 ポン子の言うように、その原因論は思い込みに過ぎないのだから。