そうか、ずっと同じことを書いてきてたんだ。
今週の振り返り
石黒先生の『文章技術』から始まって『阿含経典』に至ったわけですが、 何を考えているかというと「書くこと・考えること」です。 「いい考え方」にはパターンがあるだろう。 そのパターンが明らかになれば考えるのも楽になるんじゃないか。
それでお借りしたのが『中論』のテトラレンマ。
- それはAである
- それはAなのか、Bなのか
- それはAでもあり、Bでもある
- それはAでもなく、Bでもない
この4つのパターンを取り出してみました。 これを「悟り」みたいな難しいものだと考えず、 むしろ日常で「深く考える」で誰もが行なっている。 単純な「思い込み」から離れるためのスキルと見なします。
すると文章は4つのタイプに分類できる。
- 伝達文はパターン1である(レシピのような記述)
- 意見文はパターン2である(二項対立の葛藤)
- 統合文はパターン3である(いわゆる弁証法)
- 考察文はパターン4である(ここがモードレス)
あらためて振り返ると、 この4つは以前から書いているアサーティブ・ライティングと 重なることに気づきました。
- 伝達文は客観的事実を描く(Description)
- 意見文は主観的感想を描く(Expression)
- 統合文は具体的提案を描く(Suggestion)
- 考察文は他者の行動を促す(Choice)
なぜ重なるかといえば 「自分自身がそういう考え方をしているから」ですね。 「しっかり考えないと」と思ったとき、 自分がどの段階にいて、次にどう考えるべきか。 その見通しを立てるためにこの段階論を使っている。
ただ、それは暗黙の前提で今まで自覚してなかった。 アサーティブネスやテトラレンマを通して再発見した感じです。 やっと言葉になってきた。 なので「それはアサーティブネスではない」と言われても 「そうでしょうよ」としか思わない。 自分の中にあるものを汲み取るために借りた概念だから、 汲み取れたらそれでいいのです。
なので、この執筆プロセスを「テトラ・ライティング」と呼ぶことにします。
対話論も含む
実はシェマLも同じプロセス論になっている。
- 対象:客観的事実。何があったか。
- 自我:主観的感想。どう感じたか。
- 他者:具体的提案。どうなるといいか。
- 主体:行動の選択。どうしたいか。
なぜ重なるかというと 「考えること」を「他者との対話」と考えているから。 精神分析には関心はありません。 だから、ラカンがどう言ったかはどうでもいい。 ただ他者と対話すること。 哲学的対話も含め、そこがゼロ地点だと考えている。
他者と対話した体験が内在化して「自分との対話」になる。 すると深い対話をしたかどうかが「思考」の基盤だということ。 若い頃、お酒を飲みながら夜明けまで友人と議論した。 その友人の声が今も心の中で響いている。 それに応えること。
あるいは読書でもいい。 自分が考えたことのないようなテキストと格闘した。 わからないなりに一行ずつ読み進めて、 辞書を繰りながらその作者と言葉を交わした。 そうした体験の歴史が「書くこと」には内在しています。
ブログでも同じ。 たとえばアプリの使い方を書くのはパターン1です。 「それはAである」を伝達する目的で書く。 ただ、その中にも他者はいます。 「読者」という他者が心の内にいて 「ここがわからん」とつぶやく。
それに対し応答しようとすると、 今度はパターン2になります。 「もしこうしない場合はこういうことが起こるので、 今回はこういう方法を取りました」と説明する。 場合わけにより二項対立を立て 「自分としてはどちらがいいか」の意見を書く。 こうすると楽だとか気持ちいいとか主観が入る。 そうなると意見文です。
なので「書くこと」は、 内なる「読者」と対話することであり、 対話を深めるたびテトラ・ライティングがパターン1からパターン2になり、 パターン2からパターン3となる。 パターン3がパターン4になると行動を促す。 思考が行動に直結します。 自分の考えた方法でアプリを日常的に使用する。 現実に接地する。
するとそれが新しい体験となり、 次の段階のパターン1を生み出す。 何か困ったことが起きたり、うまく続かなかったりする。 そのことが新しい「考えること」になる。
テトラは循環しつつ前進します。
まとめ
粘土をこねているうちに柔らかくなってきた。 そんな印象がします。 これを素材にして、 これから何を作っていけるか、かなあ。
自分が書く文章に反映するかどうか。 一歩でも深く考えていけるか。 そこにテトラ・ライティングを応用する感じで。
阿含経典 (1) (ちくま学芸文庫 マ 3-2)