自分でも何を書こうとしているかわからないけど。
テトラ・ライティング
オープン・クエスチョンを考えるために一度クローズド・クエスチョンに変換する。 もし人間の思考がそうしたプロセスを経るものだとしたら、 連立方程式がメタファーに使えるかもと思いました。
- y = ax + b
- z = cx + d
こうした一次方程式があるとして、 二項対立を「y > z か、y < z か」みたいな設問だと見なす。 でもそこにあるのは「そもそも x とは何か」というテーマで、 どうそこに行き着くかじゃないだろうか。
すると第3レンマは「y > z でもあり、y < z でもある」となるわけで、 それは場合わけだよなあ。 「x > α の場合は y > z、x < α の場合は y < z」だろう。 二項対立を考えると、条件によって内容が逆転するときがある。 時間が関与すると反転する。 そこに変数としての「x」が関与していて、 実はその「x」が二項対立の「地」を為していた。 そうしたロジックで詰めていくことができそうだ。
現実には x だけでなく、a も b も c も d もわからない。 「自由か、平等か」だったり 「金か、命か」だったりする。 そこに方程式は見つからず二律背反に思えてしまう。
ヘーゲル的な難問だなあ。 弁証法ですよね。 「弁証 Dialektik」は文字通り「ふたりで話し合う」です。 ポリフォニックなものである。 対話を通して変容するものがある。 書くことが二項対立を経るのは、 その二項が対話するからでしょう。 共通点を求めたり、妥協案を拵えるのでなく。 対話を通して、隠れている変数 x を浮き彫りにする。
ピンを探す
アランの『幸福論』は「泣き止まない赤ん坊」のエピソードから始まります。 あやしても泣き止まない。 おっぱいを与えてもぐずる。 「この子はこういう性格だ」と考えるのは思考の放棄です。 「父親に似て泣き虫なんだろう」は、説明しているようでいて、 何も言ったことにならない。
アランが観察していると、 乳母が赤ん坊のオムツを触って、ピンが外れていたことに気づいた。 ピンが肌に当たって痛かった。 ああ、それで泣いていたのか。
アランはこの「ピンを探すこと」を「考えること」のモデルとしています。 起こっている出来事の、本当の原因を見つけること。
とはいえ「アレクサンドロス大王は簡単にピンを見つけた」と言われても、 アレクサンドロス大王じゃない凡人はどうしたらいいか。 簡単に連立方程式を解く方法はないものか、 と楽したくなるんだよなあ。
世の中「泣き止ませるノウハウ」が受けている時代だからね。 「口におしゃぶりを咥えさせましょう」みたいな。 結果がすぐ出る方が重宝する。 本当の原因がわかっても自分ではどうしょうもないことだったらどうする? 社会が悪かったり、もう済んだ過去が原因だったら何もできないじゃないか。
たぶん、他者や過去に原因があっても アランはそれを「ピン」とは呼ばないですね。 「オムツのピン」だから自分の「オムツ」の中にある。 あるいは「オツムの中」にある。 恐怖や不安が自分の心にある話をしています。 それがどうにもチクチクする。
自分の中にある「ピン」を探すために、 まず二項対立を立てる。 「アイツさえいなければ」と排斥的でも構わない。 二項対立の段階ではそれも「思考」の第一歩になる。 それで「アイツがいない場合」の場合わけをして 「すると、こういうことが起こるかな」とシミュレーションして 「いないと困る場合もある」と気付き 「そもそも何が嫌なんだろう?」と変数 x にたどり着く。
そこが「ピン」の在り処なのだろう。
まとめ
とはいえ、個人的に今困ってることがないんだよなあ。 葛藤の具体例が思い浮かばなくて、 それで困ってます。