Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

西田幾多郎とインターネット

ここから入ると西田哲学は通りやすい。

西田哲学

今まで読んできた西田幾多郎論の中ではずば抜けてわかりやすかった。

たいてい『善の研究』に紙面を取られるじゃないですか。 でもあれは幾多郎のデビュー作であって、 まだ基礎固めの段階。 しかも『善の研究』という書名も出版社がつけたものであって、 幾多郎の本意ではない。 そんなことより、 もっと大きな流れで西田幾多郎を捉え直そうという試みです。

彼の変遷をたどると「純粋経験→自覚→場所→歴史的世界」になるかな。 ある一つのことを様々な角度から何度も考察している感じです。 ある一つのこととは「今ここでの体験」。 それがテーマになっています。

カントを批判していると見たらいいのかも。 人間は現実そのものを認識できない。 知覚を通してデータを集め、 そのデータをもとに脳内で「現実」を再構築する。 その、ただの「現象」を見ているにすぎず、 見え方は個々人によって異なっている。

それがカントの世界観であり、現代科学の前提になっています。

客観的な世界が外界にあるが、 人間は感覚というフィルター越しに主観的にしか認識できない。 もしそれが本当だとしたら隔靴掻痒というか、 直接「現実」と触れ合うことができないことになる。 なんか淋しいじゃないですか。 しかも「脳内の表象を見ているのは誰なんだ?」という ホムンクルス問題も出てくるし。

それで西田幾多郎は「まず経験があり、それが実在である」という論を立てます。 「今ここ」で主体と対象との間に相互作用が働いている。 それ自体が「現実」であり「実在」である。 そこから考察を進めればいいのであって、その外部に「現実」を置かなくていい。 そもそも相互作用の外部なんて、考察しようがないから無いも同然である。

それで「今ここでの体験」=「純粋経験」に幾多郎は焦点を当てていきます。

体験だけの世界

鐘の音が聞こえる。 餃子が辛い。 温泉で身体が温まる。 体験だけに注目すると、そこに「私」はありません。 ただ純粋経験だけがある。

でも言葉を使って説明しようとすると「私」が出てきてしまう。 「私は鐘の音を聞いている」と主語/目的語が揃います。 subjectとobject。 主体と対象に分離する。

これを幾多郎は「反省」と呼びますが、 反省意識が立ち現れることでカント的な世界観が生まれます。 そして初めから「主体と対象」があったかのように思い込む。 純粋経験があったことを忘れてしまいます。

これ、「禅」に絡めて説明されちゃうところですが、 禅は関係ないと思います。 同時期にウィリアム・ジェームズとかも言ってることだから。 カントの「物自体」を「経験そのもの」と読み替えることで、 人間がちゃんとこの世界に生きていることを保証しようとした。 科学の土台を作り直そうという試みです。

中動態論も同じかな。 現代社会は「する/される」の能動態/受動態の世界観で切り取られているけど、 そもそも現実には「なるようになる」という中動態的側面がある。 言語的にそう捉えていた時代もあるのだから、 そこから科学を再構築できるんじゃないか。 すると認識もモードレスになって息苦しさも少しは減るだろう。

幾多郎はさらに「経験」と「反省」の相互作用にも着目し、 それを「自覚」と呼んでいます。 主客未分に留まっては考察できないし、主客分化に固着しては発展がない。 「生きる」というのはこの間を往来することだからです。

世界の自己実現

でも、ここまではまだ「人間」に重きが置かれていた。 後期に入るとさらに視点が反転します。 「今ここ」の「今とは何か/こことは何か」に力点が移り始める。 それが場所論になります。 主体と環境との間の相互作用が主役として注目される。

この世界の生成流転を「世界が自己実現する」と言い出す。 春になって花が咲けば 「世界が花を通して自己実現している」と見る。 そういう世界観を幾多郎は提案します。

難しい話ではありません。 花は花だけで花が咲くわけではありません。 太陽の光を浴びて育つし、 土の中の養分があって成長します。 雨がもたらす水分も欠かせないし、 虫たちも花粉を運びます。 世界全体が動いていて、今ここに一輪の花がさく。 それが「世界の自己実現」です。

これは人間であっても同じこと。 何か文章を書くにしても話すにしても、 「私一人」でやっているわけではない。 これまで読んできたこと、考えてきたこと、 見たり聞いたりしたこと。 世界との相互作用の中で「文章」は編まれていきますね。

世界が「私」を通して自己実現している。 それは同時に「私」の自己実現でもある。

インターネット

この本は「西田哲学の現代的な意味を考えてみたい」となっていて、 そこも素敵な視点だなあと思いました。 そう、幾多郎が現代を生きていたとしたなら、 このインターネットの世界をどう批評するだろうか。

でも、本自体は西田哲学の説明で紙面が尽きて 「デジタル化された情報に触れても、それは純粋体験にならないんじゃないか」 と疑問を呈したところで終わり、あまり深めてないのが残念です。 どうなんだろうなあ。 これは読者に宿題ということか。

たしかにインターネットは言語情報が中心で、 そこに画像や動画の視覚情報があるくらいかもしれない。 五感を活用できていないし、いずれも「本物」ではなく「コピー」である。 そこに純粋経験があると言えるのか。 どうなんだろう?

でも、先天的に盲の人や聾唖の人たちを考えると、 彼らは五感の情報のうち欠けている部分がありますよね。 じゃあ、彼らは純粋経験をしていないか言えば、それは嘘でしょう。 不自由はあっても体験のうちには生きている。 そもそも不自由でもなく、自由は自由かもしれない。 だから五感は純粋経験の必要条件ではありません。

ニコニコ動画でアニメを見るのも純粋経験です。 見ているとき「私は見ている」という反省はしていません。 マジでおののいたり感動したりしている。 ただのゼロ/イチのデジタルかもしれませんが、 そんなことにお構いなく、ストーリーに身を委ねている。 これもまた「現実」であり「実在」だろうと思います。

そして、そうしたネット上のあれこれによって ネット自体が日々動いている。 この記事を投稿するのもそうですね。 インターネットが「私」を通して自己実現をしている。

西田幾多郎なら、むしろそんなことを言いそうに思います。

まとめ

「書きたいこと」が書くことを通して向こうからやってくる。 これを幾多郎は「行為的直観」と呼んでいて、 やっぱり「書きたいこと」ってそうだよなあ。

あるんだけど、ここにはない。 世界が「私」を通して書くのを待つしかない。