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哲学のはじまりは「カッコいい」

コードの美しさは心の美しさ。

哲学のはじまり

戸谷洋志先生の哲学入門。 NHKの「学びのきほんシリーズ」の一冊です。

哲学を存在論・認識論・価値論の3分野に分け、その要点を短い論考でカンタンにまとめてくれている。 哲学の全体像がわかりやすい。

若い頃にこうした本と出会えていたら苦労はせずに済んだのに、とちょっと今の人たちを羨ましく思います。

OSとしての哲学

哲学は「考えることのOS」です。

生物学を考える場合、その生物学を支えている概念について考える。 「そもそも生物とは何か」とか「生命とは何か」の基礎的なところ。 その土台を「本当はどういうことだろうか」と検討するのが哲学です。 どの分野にも必要だけど、お金にならない。

普段は「当たり前」とされている部分を「そもそもそれは何か」と問い直す。 問い直した結果、その「当たり前」が覆ることもあれば、信用に足ると確認できることもあります。 「当たり前を当たり前と確認するんだったら、やる意味はないんじゃないか」と思うけど、自分で確認すれば自信になるじゃないですか。

「自分で考えた」というのは確かな証拠です。 尋ねられたら、自分の言葉で答えることができる。 具体的な例を挙げることもできるし、他の場面でも応用することができる。

それが「哲学をすること」です。 知識として知っていても仕方ない。 自分の生きる実践につながってこそ「哲学」なわけです。

そして、それが「自由」である。 「自らに由る」という意味の「自由」です。 他人の意見に振り回されないし、そのときの感情で物事を決めつけたりしない。

だからソクラテスは哲学を「死への練習」と呼びました。 環境や身体から離れ、純粋に「魂」として生きるということです。

いきなり「魂」と言われても戸惑いますけどね。 カントは、個人の体験に基づく知性を「悟性」、論理的に導かれる知性を「理性」と呼び分けました。 この「理性」が「魂」の言い換えです。 キリスト教の「精霊=スピリトゥス」に由来する概念。

考えてみると、この「理性」は言葉に根拠を置くものです。 人間には「言葉=ロゴス」がある。 そこが動物との大きな違いでしょう。 言葉は社会的な産物なので「普遍性」があります。 他の人と議論し合い、共有することができる。

そう考えると、ソクラテスの「魂」は悟性の方じゃないかと思います。 動物にもあるし、個別的なものだし。 自分の信念を貫いて死を選んだ。

国とか宗教とかではなく「自由な個人」としてソクラテスは生きた。 当時の人たちが感じた衝撃はそれだろうし、「哲学」のはじまりはそこだろうと思う。

それをカントみたいに「普遍性」にすり替えられても困ります。

我あり故に

存在論と認識論、価値論の三つは並列しているわけではありません。 存在論がまず根っこになっている。 存在論は「そもそも論」です。 「そもそもAとは何か」を考える。 OSのOSたる部分。 サブジェクトに当たるところです。

ところが欧米語の特徴というか、be動詞の性格というか、「そもそもAはBである」のSVC文型と「そもそもAがある」の SV文型とが、どちらも「be」で混同されやすい。

「AはBである」の方は「何が本質か」の話なので「本質vs偶有」が主題になります。 本質の方は普遍的で、偶有の方は個別的。 それで「本質は理性によって識別され、偶有は悟性に捉えられる」というカントのロジックになっていく。

ところが人間が問題になったとき、これがうまく機能しない。 戸谷先生は「人間」と言ってますが、例に挙げられているのは「私」ですね。 「そもそも私とは何か」の「私の本質」を考え出すと、普遍性では説明できない。

そこでつまずくわけです。 他でもない「この私」。 これほど個別的な存在はない。

デカルトが「故に我あり」と言っちゃったからでしょう。 「私がある」もまたbe動詞です。 日本語なら「私はいる」みたいに「いる」を使うところだけど、彼らは「ある」しか言えないから、この「存在」の扱いに苦慮する。

「私とは何であるか」は、とりあえず生きてみないと何も言えません。 ある程度生きてみて、人生を振り返り「私はカクカクの存在であったなあ」と回顧し「本質」を総括する。 「そもそも私がある」が先行し、後から事後的に「私は何々である」と気づくことができる。

この「私がある」が「実存」として取り出され、20世紀にハイデガーサルトルによって深掘りされました。

三つのオブジェクト

残る認識論と価値論について、戸谷先生には申し訳ないけど、二つじゃなく三つじゃないかと思いました。 真・善・美のイデア。 哲学では、存在論のOS上で三つの基本アプリが走っている。 その話をしてますよね?

認識論は「何が真であるか」の真偽判定です。 人はどうやって「これは本当だ」と認識しているか。 実験を繰り返しても同じ結果が得られる。 誰が見ても「本当だ」と言える普遍性がある。 つまり、真偽判定は「科学」の基礎になっています。 科学の「正しい」とは何か。 そうした分野ですね。

でも、人間の価値判断は真偽だけではありません。 善悪があるし、美醜もある。 善悪を考えていくと、それは倫理学になり、美醜を考えると美学になります。 この二つの分野は科学の「真偽」では割り切れません。 別のロジックを持っている。

戸谷先生は倫理学と美学をまとめて「価値論」にしていますが、その論法なら真偽を扱う「科学」も価値論になるはずだけど。 でもまあ、確かに大きな壁がある。

真偽は「どうあるのか」の事実判断ですが、善悪や美醜は「どうあるべきか」の当為を問題としています。 理念を考えている。 事実と理念はズレますからね。 理念はエヴィデンスで語れない。 そこで分割線を引いて、認識論と価値論なのでしょう。

同じ「どうあるべきか」であっても、善悪と美醜は重なりません。 「悪」であっても「カッコいい」は存在しうる。 これがどういう判断になっているかですよね。

命乞いすれば助かったはずなのに、文句を言わず、誰の責任にもせず毒杯をあおったソクラテスそこにシビれる、憧れる! となって哲学ははじまりました。

本来それは「美学」です。 哲学は「カッコいい」から始まった。 プラトンのエロス論にしてもアリストテレスの『詩学』にしても「人は何に惚れ込んでしまうのか」です。 真偽でもない、善悪でもない。 人を衝き動かす大きな力。

そこを「価値論の一つ」として扱われると、なんだか寂しい。 美学をもっと盛り上げていきましょう。 アートとはいったい何なのか。

まとめ

「コードの美しさ」と「心の美しさ」。 どちらも「美しい」と表現するけど、どういう共通点があるのだろう? どう思います?