Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

実践理性未満

やっと三分の一まで来た。

実践理性批判

第5章を読み終わりました。 予想通り「他者」が出てきた。 もし道徳を自己幸福に基礎づけたとしたら、他者の幸福と齟齬をきたすんじゃないかという検討が行われてます。

結論とすると「自分の幸せのために良いことをする」はダメですね。 行動原理が状況に依存してしまう。 「良いことをすると気持ちよくなる」は良いみたいです。 結果として自己幸福が得られる。 副産物としてならOKという話でした。

二項対立

そもそもカントが何を議論しているのかわかりにくい。 それで補助線を考えてみます。 仮説ですね。 「アリストテレス倫理学を吟味する」だろうと仮定してみる。 そうすると筋立てが見えてきます。

本当は、先行する哲学者たちの道徳論を俎上に挙げ、それぞれの問題点を潰すことだと思いますが、その先行する道徳論を知らないので、カントのこだわりがピンと来ません。 アリストテレスはちょっと読んでるので「カントの怜悧という概念はアリストテレスのフロネーシスのことだろうなあ」と見えるし「フロネーシスでは倫理を説明できない」という批判をしているのだと気づきます。 他のところもそうした吟味を重ねてそう。

カントがアリストテレスから借りているのは「質料vs形相」の二項対立です。 英語だと matter と form。 質料は「材料」や「内容」を意味するハードウェア的なもののこと。 形相は「構造」や「機能」に関するソフトウェア的な側面です。

チェスの駒は木片でできていたり大理石でできているけど、形相的にはそうした材料が何かとは関係なく、ナイトならナイトで桂馬飛びしながら進みます。 桂馬飛びするのは石でできてるからではなく、チェスという言語ゲームにおいて「そういうもの」とされているからです。 馬の形をしているからでもない。 「形相」と訳すこと自体、変なことで。

カントの面倒なのは、この「形相」が「形式」と訳されちゃってることですね。 formalだから「形式的」と訳出される。 でもこの formal は「フォーマル・ウェア」の「フォーマル」です。 ここが日本語だとわかりにくい。 「紋切り型」と言ってるように見えてしまう。 そうではなく「材料ではなく、構造に注目せよ」のニュアンスです。

カントの思考を単純化すると以下の表になります。

質料 形相
内容 構造
経験 純粋
個別 普遍
悟性 理性
依存 自由
格率 法則

いま「純粋理性が生活の場でどう働くのか」を検討しているので、「純粋」である「形相」を重視しています。 それは個別の事情に左右されません。 「誰にでも適用できる平等なもの」です。 人間の行動原理における普遍的な法則を探している。

そうそう千葉先生の『センスの哲学』でセンスを考えるとき、とりあえず「意味」は棚上げし「リズム」に注目する話がありますが、 あの「意味」のところが「質料」で「リズム」のほうが「形相」です。 とても哲学の基本に忠実なところから始め、そこから二項対立を崩す脱構築に行くのが「今風」。 カントはまだまだ脱構築には至らない。

科学的民主主義

科学の時代に入り、科学をどう理論づけるかが哲学の課題になりました。 科学の対象は「物そのもの」です。 でも人間は「物そのもの」を知ることはできず、感覚を通して得られた情報をもとに「現象」として把握するに過ぎません。

なので顕微鏡や望遠鏡の発明によって経験が拡張されることで、それまでとは違った「世界像」を獲得します。 直接「世界」を把握できるわけではない。

でも経験に依存するなら、個々の人間がそれぞれの「世界像」を持っていることになり、お互いに話をすることが不可能になります。 だから、誰もが「そうだね」と認める普遍的な側面もある。 その普遍的側面を把握する機能をカントは「理性」と呼びました。

理性は経験に先立つので「ア・プリオリな」や「超越論的」という形容詞がついて回ってきます。 ああ、読みにくい。 カントは形容詞がうるさい。 でもこれは「人間誰でも」のニュアンスですね。 「平等」を考えている。 身分を超えて哲学はできるはず。

そして経験に依存しないから「自由」の基盤にもなる。 科学的な人間像を考えると「平等と自由」という近代民主主義が導き出される。

民主主義のない時代にその基礎をカントは考えた。 『実践理性批判』の発行は1788年でフランス革命の前年です。 その機運が高まっていたのだろうなあ。 「平等と自由」の時代。 その社会はどんなあり方をすべきなのだろうか。

どうも「法律」ではダメなんです。 「処罰されるのがイヤだから」が行動原理になると「自由」とは言えない。 誰もが「ほんと、そうだなあ」と思える普遍的な法則を見つけ、自分からそれに従うことでみんなが幸せになる社会じゃないといけない。

「それが科学の法則のような形式で人間にはあるはずだ」。 そうカントは考えてそう。 だけど、ちょっと無茶じゃないかなあ。 理想と現実を混同してますよ。

まとめ

と疑問を持ちつつ、中盤に突入。

追記

「ヒンメルならそうした」をカントは肯定するんだろうか。 一応、普遍的法則にはなってそうだけど、自分の意志で動いている感じに思えないところが難しいなあ。 偉かったと思うけど、無茶しないでねって感じかな。