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「ハンス・ヨナスの哲学」は難しかった

前半は「生命の哲学」が中心で、後半から中期の「責任という原理」に重心が移ります。 人間生命の本質が「像を作ること」なのが面白かったんだけど、そのまま繋がってるわけじゃないですね。

未来への責任

「未来への責任」は、今の人たちの対話では実現できない。 未来人と対話するすべはないから「何をすべきか」の結論が導き出せない。 そうした問題点があります。

ここから2つの課題が出てくると思うんですけど、それが難しい。

一つは、どうすれば無責任にならずに済むか。 もう一つは、どうすることが責任を果たすことになるのか。 この2つが錯綜して、結論から言うと、ヨナスは成功していません。 あまり説得力のある理論を作れなかったように感じます。

初めに出してくるのは「泣いている赤ん坊」のイメージです。 「責任 responsibility」は「rsponse + ability」という合体語。 これは倫理学でよく使われるネタで、ヨナスもここから始めている。 レスポンスできること、つまり「助けて」という声がしたら「どうしましたか」と応えるのが「責任」の基本形です。 「誰がやったの?」ではなく「誰がするの?」です。 犯人探しではない。 これは原罪の文化圏だからでしょうか。

目の前で泣いている赤ん坊がいる。 それを無視して通り過ぎることはできない。 「なにかしなきゃ」という焦燥感に襲われる。 まるで孟子の「惻隠の情」のような話です。

今ならSDGsのイメージかな。 これを批判している。 チェックリストを並べ「このルールを守りましょう」という方式。 カントが提案した実践理性のことです。 「これではダメだ」とヨナスは否定する。 それは「考える自由」の放棄だからです。 それに想定外のことが起きたとき柔軟に対処できない。 「未来はわからない」という前提なので「あらかじめルールを作る」は却下されます。 ルールではなく「情」で動く。

すると、そのときそのときで各自が考えて行動する自由を確保すること。 その「考える自由」が未来においても維持されるような仕組みを作る。 それが現代の「私たち」にできることになります。 未来のために何をすべきかはわからないけれど、少なくとも「考える自由」を守る必要はある。 そんな感じでしょうか。

アウシュビッツ以降の神

でも「考える自由」は重荷です。 自分から「責任」を背負い込むことを避けたいのも人の常。 耳と目を閉じ、口をつぐんで、システムの歯車になる。 国会答弁でよく見かける光景。 それはアウシュビッツで真面目に業務をこなしていたアイヒマンにも重なる。

そこをどう考えるか。

晩年のヨナスは「神への責任」を持ち出してきます。 「哲学は無神論でなければならない」と考えていた彼が、死を意識する年齢になってから「神」と和解する。 この決断は苦渋に満ちたものだったようです。

無神論」というのは「どんな信仰の人でも等しく参加できる哲学を」というニュアンスなんだけど、それとは別に、アウシュビッツで肉親を殺されたヨナスの絶望からも来ています。 あの虐殺を許す世界に神などいない。 そんな、深い絶望です。

ヨナスの「神」は無力です。 「責任という原理」に出てきた「泣いている赤ん坊」のイメージが今度は「無力な神」に変容します。 これもアリストテレスの「不動の動者」の翻案ですね。 神は宇宙に動きを与えることで力を使い果たしてしまった。 あとは、そこに生まれる「生命」に願いを託し、ただ見守るだけである。 それも涙を流しながら。 「生命」の愚かな振る舞いに傷つきながら、ただ見るだけの存在になっている。

ここでキーワードになるのが「行動の不死性」。 仏教のカルマに似ていますね。 たとえ個人が亡くなり、人々の記憶から消えたとしても、その人が選択した行動の影響は宇宙に残る。 行動自体はなかったことにできない。 ささやかな善であれ悪であれ、その人の生きた証として痕跡が残る。 その痕跡の積み重ねが宇宙を作っていく。

この「宗教」はヨナス個人のもので他の人に強要しません。 だから、これも無力です。 でも人間生命を「像を作る能力」と見ることは、その「像」の究極に「神」があると言うことでしょう。 人間は「神の似姿」であると同時に「神を創造するもの」でもある。

「神を考えること」は、システムの外部に視点を置き直し「未来を考えること」でもあります。 それは今のところ、人間にしかできないこと。

まとめ

どの文化にも「神」が存在するのは、宗教が「未来」の下支えをしてきたからではないでしょうか。 次の世代にバトンをつなぐことを「この世代の責任」としてきた。

いま「神」の名のもとで様々な虐殺が行われています。 ウクライナでもガザでも。 その「神」は「資本主義」や「民主主義」の場合もある。 学校でも職場でも。 それぞれが「未来のために」と言いながら、他者の「自由」を奪う行動を刻みつけています。

何かが足りない。 ヨナスはその迷宮をぐるぐる巡りながら、でもスッキリした解決策にはたどり着けませんでした。 もしかしたら解決策などないのかもしれません。 だとしたら、これは悲しいことだなあ。 おおブッダよ、あなたは寝ているのですか。