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「水中の哲学者たち」を読む

詩集と思ったら哲学書だった。

水中の哲学者たち

水中の哲学者たち

永井玲衣 (著)

「水中」というのは「哲学対話」で考えること。 「哲学者たち」は、その「哲学対話」に参加している小学生や中学生、サラリーマンや主婦の人たち。 数人が輪になって普段気になっていることをみんなで考える。 そうした営みが「哲学対話」です。

なので哲学の本なんですが哲学者の名前は出てきません。 あ、すいません。 ちょっと出てきました。 サルトルが「ぶびばばば」と電波出してたからサルトル中心に読んでるのかな。 修論の話もあるので、院生だった頃から書きためたエッセイなのでしょう。

ネット上に連載されていた分も入ってます。

ヘアサロンのWeb雑誌に載っていたエッセイもある。

哲学対話

メインはやっぱり「哲学対話」かな。 これいいなあ。 子どもたちの発言が心を揺さぶられるというか、泣いてしまいました。 ほんと「生きてる」ってなんだろうね。 死んだらどうなるんだろうね。 人を好きになるってどういうことだろう。 どうせ死ぬんだったら何をしても無駄なんだろうか。 そもそも無駄ってどういうこと?

「先生、ホントは答えがあるんでしょ?」

そう尋ねる男の子の言葉にハッとしました。 「大人は正解を隠しているに違いない」。 いやあ、大人もわからんのよ。 わからんなりになんとかやってるけど、それに普段はあまり考えてないし。 いや、大切なことだと思ってるけど、生活するのに忙しいというかバタバタしちゃって。 考える暇がないほどでもないけど、金曜日にはフリーレンを見ないといけないし。 いや、ほんと、ごめんなさい。

この本の醍醐味は、読みながらその「対話」に参加しているような気分に包まれることですね。 臨場感がある。 「わかるぅー」と共感し合っていた女子高生のグループが、やがて「えー?」「なんで?」と互いに問いを深め始める。 ああ、人間ってわからない。 あなたのことがわからない。 「んー、それはね、いや、そうじゃないなあ」。 自分のこともわからなくなった。

「ジョーシキじゃん」と言ってたものが崩れていく。 それが不安ではあるけど、心地よいのです。 目がキラキラ輝き始める。 その場に自分も立ち会っている。

魂のケア

哲学対話の入門書としていいですね、これは。 自分もやりたくなってくる。 そして奥義書としても完成度が高い。 時間が来たらスパッと終わる。 「今日話し合ったことのまとめ」をしない。 「先生」もわかってないからです。 要約できるような対話はしていません。 「わからなかった」だから良かった。 心底思える永井先生は達人です。

なので、この本がどういう本なのかわかりません。 「哲学対話はセラピーではない」はその通りでしょう。 エンカウンター・グループとも違うし、オープン・ダイアログでもない。 それらには、下心というか「いいことしてあげよう」という善意がある。 でも哲学対話は「善意」じゃないですね。 お互いわからないことに首をツッコむのだから。 永井先生は「真理のケア」と書いているけど、「真理」もまたよくわからない。

受けた印象とすると「魂のケア」かな。 自分の中にある、寂しがりで泣き虫の「魂」に寄り添って「ちゃんとここにいるよ」と声をかけること。 息をひそめて「水中」に潜ると、そこに「魂」がたくさん見えて互いに溶け合っていく。 「わからないね」「ああ、わからないね」「不思議だね」。 それが「哲学」なのかどうかはわからないけれど、それが「哲学」であってほしいなあ。

そんなふうに思いました。

まとめ

ハイデガーウィトゲンシュタインも、この訳のわからない世界で「ああ、わからない」と呟いている。 対話の相手がほしくて本を書いたのだろう。 みんな、寂しがり屋だな。