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再び「訂正可能性の哲学」について

「訂正可能性の哲学」を読んで「これは訂正可能性なのだろうか」と考えました。

固有名詞

まず固有名詞の特性について訂正可能性が出てくる。 「実はソクラテスは女性だった」といった文章ですね。 驚きはするけど、説明を聞くことで「なるほど、そうかもしれない」と納得する可能性がある。 プラトンソクラテスの名前を借りて対話劇を何冊も書いたけれど、そこで語られる思想は実在のソクラテスのものではなく、プラトンが亡命先のイタリアで出会った女性ソフィーから教えられた哲学だった。

そういう可能性はある。 「我々がソクラテスと思っていたのはソフィーという女性だった」と訂正することができる。 「愛するソフィー」が「フィロソフィー」の語源になった、と。 固有名詞は、その定義が訂正されたからといって破棄されるわけではない。 「今までは間違っていた」で構わないわけです。

でも普通名詞でもそうだよなあ。 と躓きました。 「実は恐竜は鳥類である」とか「実はビッグバンは5分前に起きた」とか結構訂正可能性は開かれている。 固有名詞に限らない。 だから言語ゲームの話になるんでしょ?

人は言葉を話しながら、実はどんなルールで自分が言葉を使っているかわからない。 言葉に限らず、世の中のルール全般がそうです。 ゲームのルールを知らなくてもゲームを楽しむことができる。 野良野球をしながら、途中で「森本の弟はまだ幼稚園だから4ストライクでアウトにしよう」とかなんとか。 ルールを変更することもできる。

これも訂正可能性なわけです。

一般意志

そんな感じで、本の中ではいろいろなタイプの訂正可能性が出てきて、実は一貫性がない。 訂正可能性自体が家族的類似性で繋がっていて、定義不可能な概念として使われています。 わざとですかね。 わざとかもしれない。

ポイントになるのは後半に出てくる「人工知能民主主義」。 人工知能を使った政治システムへの警戒心です。 生成AIを政策決定に取り込むことで何がこぼれ落ちるのか。 その考察のところ。 結論を先取りすれば「訂正可能性」が抜け落ちてしまう。

民主主義をルソーに遡り、そこから「一般意志」という概念を引き出します。 「民意」みたいな感じかな。 市民全体の意志を指しているけれど、それは個人の意志の合計ではありません。 個々の損得から導かれるものを国政の方針にしたら、ただのパワーゲームが起きるだけです。 誰かの意志ではなく、もっと公的な意識に基づいた意志。 それが民主主義の中心になければ自由な社会が訪れることはない。

人工知能民主主義

でも、その「一般意志」は誰にもわかりようありません。 だから民主主義は試行錯誤しながら模索する、非効率な政体になります。 そして、それが良かった。 答えを誰も知らないのだから常に「訂正可能性」に開かれていた。 ところが人工知能が出てくると事態が大きく変わる。 ビッグデータから導かれたものが「一般意志」だからだそうです。

「だそうです」と書くのは「ホントかな」と思うから。 「一般意志は集合的無意識であり、集合的無意識ビッグデータを分析すれば取り出せる」という東浩紀の前提にはムリがあります。 「シンギュラリティ」を否定しているのに、同レベルの「ビッグデータ」で話を進めている。 ちょっと違うと思います。

ただ「政治家が、ビッグデータが民意である、と言い出す」なら信じます。 そりゃあ言い出しますよ、彼らは。 自分らに責任がかからないから利点しかない。 今でも「エビデンスは」と言っているから、それが「ビッグデータは」に置き換わるだけ。

ビッグデータが言い訳に使われる民主主義を「人工知能民主主義」と呼ぶなら(あ、訂正しました)、もうそこまで来ている。 マイナカードにGoogleの検索履歴を紐付ければ、その人の「犯罪系数」を測定できるようになります。 「いやいや、自分には何もやましいことはない」と言っても無駄なこと。 あなたに似た検索履歴の人が事件を起こせば、あなたの「犯罪系数」もポイントアップしていきます。 どこからレッドゾーンになるか誰も教えてくれない。 知らないうちに要注意人物になっています。

そのとき訂正可能性はあるのか。 「私は善良な市民です」と証明できるだろうか。

まとめ

ただ、論としては新しくない。 これ、プラトンの哲人国家だし、キリスト教会のことでしょう。 人民は羊であり家畜である。 だから、全知全能の存在が導かねばならない。

でも、いつの時代も羊だけでなく狼もいた。 強い狼でなくても「森本の弟」という「子ども」が社会にはいる。 そこは人工知能にも手の打ちようがない。