Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

物語の循環する世界

とりあえず現時点での物語論

言語ゲーム

普段暮らしている「日常」はとくにルールを意識することなく、なんとなくうまく回っている。 その中でも「心」に関することは目に見えないのに、なんとなく自分の内側にあると考えながら人々が語り合っても違和感がない。

そこが「言語ゲーム」の行われている場面である。

この「言語ゲーム」に意識的になるとき発見が起こる。 「あれはそういうことだったのか」と過去の体験が意味づけられる。 アリストテレスが『詩学』で「ミュトス」と名付けたものだ。 この物語化を「ミステリー」と呼ぼうと思う。

ただ「ミステリー」が人々の常識に登録されると「ヒストリー」になる。 「そういう原因があったのでこういう結果になった」と因果関係として捉えてしまう。 混沌とした物事にパターンを見つけ、それを「真実」と思い間違う。 体験を「反復」と見なすことで安心しようとする。 それも大切だが退屈でもある。

循環分析

以上のことを四象限に配置すると下図のようになる。

例の図ですね。

x軸は「因果/迷宮」としてみた。 『センスの哲学』に出てくる「パターン化/逸脱」と取ってもらっていい。 人は混沌をパターン化することで、到来するリスクに備えようとする。 でもそれだけだと自分の中に収まらない何かがあり、溢れだしたり漏れたりする。 そこはちょっと痛気持ちいい。

パターン化すれば「ヒストリー」で、痛気持ちいいのは「ミステリー」である。 「ミステリー」には人生の驚きがある。

y軸は「体験/物語」としてみた。 これは「身体性/認知」と読み替えてもいいかもしれない。 「言語ゲーム」は本人の意志に関わらず、すでに体験している状況だ。 生まれたときから、その文化的な状況に投げ込まれている。 言葉を使うにしてもゲームに参入するにしても、ルールがわからないままプレーヤーとして振る舞わねばならない。 いつも事後的に「あ、そっか」と発見しながら体験を物語化していく。

自分で発見するのは楽しいが、学校で教わるのはつまらない。 前者が「ミステリー」で後者が「ヒストリー」だからだろう。

去勢儀式

さて、循環分析の目的は自分の盲点を見つけるところにある。 今回は「因果+体験」の象限らしい。 これはなんだろうか。 「ヒストリー」として読み込んだものが身体化する。 パルメニデスの「思い込み=ドクサ」の領域と思われる。

もしかしたら精神分析の「去勢」に関わる象限だろうか。 ノイズを切り落としてコスパを上げる。 社会化のために避けがたい領域かもしれない。 そればっかりだと息苦しいし、そこから離れると生きづらい。

「去勢」がわかりにくいのは日本人だからかもしれない。 これは牧畜文化では日常的な用語だろうと思う。 家畜の管理に欠かせないのが「去勢」で、野生を文化に受け入れる儀式性がある。 去勢された動物は人間社会の一員になる。 それを人間に適用したのがユダヤ教の「割礼」だろう。 その文脈が実感しにくいので「去勢」はわかりにくい。

日本でもイニシエーションはあるから「去勢」は「宮参り」や「七五三」に隠れていそうである。 野生は死に近い。 いつこの世界から離れていくかわからない。 人間社会の儀式を通すことで、その魂をこの世に繫ぎとめる。

見えないものはイメージで扱うしかない。 そして儀式とはイメージの装置である。

なので「因果+体験」の領域は「儀式」が当てはまりそうだ。 「儀式」が受け皿となって混沌を受け止めている。 もちろん、すべての「不可知」を受容できるわけではない。 漏れ出した分はモヤモヤしたまま「ミステリー」を待つのだろう。

まとめ

うーん、「儀式」かぁ。 考えたことなかったなあ。

でも儒教の「礼」に関わるところですね。 神々と折衝するためのノウハウ。 「礼」はそうした不可知なパワーに向き合うライフハックだったはずです。 今でも社会に隠れているというか、それが不明瞭なままなので、むしろ社会が閉塞的に感じられるのか。