Jazzと読書の日々

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『臨床のフリコラージュ』を読んで

「フリコラージュ」という造語がいい。 「振り子」と「ブリコラージュ」が掛けてあるダジャレですね。 この言葉に至るまでのプロセスがこの本の醍醐味です。

フリコラージュ

斎藤環先生と東畑開人先生の対談。 すぐ二項対立を持ち出す東畑先生に、環先生が「そうでもあるし、そうでもないし」と応えているうち、東畑先生から新しい連想が出てくる。 そういう流れで、回を重ねるごとに面白くなっていく。

東畑先生は80年代の生まれだからか「80年代は生活が豊かで、人々の関心が実存にあった」みたいな論を出しますが、そうかなあ。 「80年代が実存主義だった」って感触、その時代を生きていた人間にないんですけどね。 実存主義は70年代の学生運動を繋がっていて、サルトルとかメルロ=ポンティでしょう。 アンガージュマンやコミットメントだった。 それに対し、80年代は構造主義ポスト構造主義が一挙に入ってきた印象です。 物質的な豊かさは浅田彰の逃走論とホイチョイ・プロダクションにくっついている。 河合隼雄も「コンステレーション」を中心に据え、華厳経的なポスト構造主義を打ち出した頃だけど、たしかに誰も継いでないのかな。

でも自分が生まれる前が十把一絡げになるのはわかります。 (戦前の歌と戦後の歌の区別ができないからなあ。朝ドラで淡谷のり子が戦前の人だと知ったし)。 大事なのは今の立ち位置だから、それを掴むために「実存から生存へ」という二元論を採用している。 自分らしさの前に、まず生きていくこと自体がしんどい。 そういう時代に自分たちはいる。 その実感を表現するのに「あの豊かだった80年代」が対比に使われる。

この発想自体がクラインの分裂妄想態勢かな、と思いました。 「AかBか」の世界を生きている。 ところが環先生が海千山千だから、その話に乗りながら微妙にずらす立ち位置で応答するので「振り子」が揺れ始めますよね。 これが環先生の臨床なのだろうな。 東畑先生もその揺れにチューニングして、自分の路線からハズれる話を始める。

お互いにセンスがいい。 抑うつ態勢に入っていくプロセスに熟れたものを感じます。

物語

個性化と言っている人たちの解釈が没個性的って話、笑っちゃいました。 まったく。

ただ「物語」と言いながら、2種類のものを混同しているのかなとも思いました。 一つは「トラウマが原因」みたいな因果関係の筋をつける物語。 「AだからBになった」という説明は非生産的でしょう。 Aはもう過ぎたことだから変えようがない。 「あなたがそうなるのは仕方ない」で終わりです。 心理学化と言われるとき問題になるのは、この種のタイプ。 明らかに社会の問題なのに、個人の内面にすり替えられてしまう。

もう一つは「ミュトス」と呼ばれるもの。 「神話」と訳され誤解されがちだけど、本来は「話されたもの=パロール」の意味で「ミステリー」の語源です。 ある「言葉にできない何か」を巡って、話がその周りをくるくる回る。 ミステリーの基本形ですね。 そのものを名指して近づくことはできないけれど、いろいろな角度から語り続けることで話が豊かになっていく。 環先生が「螺旋を描きながら少し上昇していくような」と形容しているパターンが「ミュトス」です。 これも「物語」でしょう。

この二つは厳密に分類できないかもしれません。 分けてしまうと、これも振り子のように揺れ始める。 「AかBか」の分裂状態。 かといって弁証法にも落ちないし。

まとめ

振り子が止まるとしたら学問として死を迎えたとき。 それはどの分野でも同じかな。