Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「センスの哲学」は読めなかった

読み終わったけれど「感想」が浮かんできません。 うーむ。 「いい」とか「悪い」とかもなくて「何が書いてあったんだろう」で留まっている。

でも「感想がない」のも感想だし、あとで読み直したときに何か思うかもしれないので、今の戸惑いをメモにしようと思います。

センスの哲学

千葉先生の本には「おまけ」がある。 グリコにおもちゃがついてくるように「おまけツール」が添付されています。 「勉強の哲学」では「欲望年表」でした。 「現代思想入門」では「脱構築のしかた」。 本の最後のほうで「じゃあ、一緒にやってみましょう」みたいな付録がついています。

学研の「科学と学習」の世代には懐かしい。 目次を見ると「センスの哲学」にも「付録 芸術と性格をつなぐワーク」が載ってます。 ほらね。

たぶんアウトラインを描いたあと、そこから「おまけツール」を作るんだと思います。 何通りか作って、使えそうなツールが決まってから、それに合わせて本文の手入れをする。 そんな書き方をしているんじゃないかと「仮説」を立ててみました。

で、今回の「おまけ」ですが、自分が影響を受けたドラマやアニメを思い返して「その構造分析をしてみよう」という内容でした。 意味じゃなく構造に目配せする。 ははーん、これはロラン・バルトよ、絶対。 バルトの「物語の構造分析」が背景にあって、それをセンスに絡めるのか。 なるほど。 もうわかっちゃった。

と、この読み筋で本文に入ったのが今回の「敗因」だったかもしれません。 読書に勝ち負けはないけれど「出会い損なった」のはここじゃないかなあ。 バルト、出てこないもん。 宇都宮の餃子だもん。 そこから攻めるかぁー。

センスがいい

「センスがいい」の内実を明らかにし「センスを磨く」の方略を考える。 そんなハウツー本になっています。 なのでこれはライフハックの話。

ライフハックに会ったら「考案者の問題意識」を問え。 そういう方針で読んでみると、なるほど「教育資源」か。 いわゆる「親ガチャ」。 「センスのいい家庭で育つとセンスが良くなる。それはその家庭の教育水準によって決まっている」という、最近よく見かける言説です。 学歴が就職に繋がり、就職が収入に繋がり、収入が教育水準に繋がり、教育水準が次世代の学歴に繋がる。 最近の「センス」はそうした文脈で使われるらしい。

これを転覆させる。 それがこの本の「問題意識」だと思いました。 違うかもしれないけど。 でも「センスは家庭環境ではない」は論点の一つにありそうです。

そりゃあ、そうだろうなあ。 センスは「いい/悪い」より「ある/無し」で語るものです。 「センスがあるなあ」とは言うけど「センスがいいなあ」とはあまり使いません。 でも若い人からは聞きます。 語用論的に変化してきてる? 世代差があるのかな。

「野球のセンスがある」や「将棋のセンスがある」という表現はします。 その方面に必要な勘が働くというか、コツを掴むのが早いというか。 そうしたものを「センス」と呼ぶのは抵抗ありません。 身体からにじみ出るところにセンスがある。

それに比べると「センスがいい」を聞くのは洋服や雑貨に関してですね。 LOFTや東急ハンズが出てきて「自分探し」と言い出した頃。 「コーデ」みたいな表現が急に巷で使われ出した。 商品を組み合わせて、それを自己表現とする。

平成に入ってからかな。 ミシンで普段着を洋裁しなくなった。 既製品をカスタマイズして着こなす。 男性用ファッション雑誌が出てきて、阿部寛がモデルをしていた。 そこくらいから「センスがいい」に価値が置かれるようになりました。

でも教科書やマニュアルがあると信じ込むと、これは苦しい。 そこで「センスの哲学」で提案してるのはブリコラージュ。 そうそう、ブリコラージュだ、これは。 「センス」を否定するのではなく、身近なこととして定義し直す。 カスタマイズやガジェットと同じ発想。 それをシステムに対抗するツールとして磨きあげています。

スリル

スリルと退行 単行本 – 1991/12/1

マイクル バリント (著), Michael Balint (原名), & 3 その他

フロイトの「Fort/Da」が出てきてラカンの「享楽」の話になります。 そこからのウィニコットに繋げるんだけどピッタリ来なかったかな。 ラカン繋がりでバリントの「スリルと退行」に進むんだと思った。 ところが「スリル」が出てこない。 驚いてKindleで本文検索してみても「スリル」という言葉がない。

そう、いま「スリル」がなくなっているんだと気づきました。 マイケル・ジャクソンの頃は「スリラー」があったのに、日本から遊園地がなくなり「お化け屋敷」が消滅した。 あるのはディズニーとUSJのようなメディアミックスなテーマパークだけ。 「サスペンス」はあっても「スリル」はない。 これはなんだろうか。

「スリル」とは「法」の外、「法外」のことです。 人間はベースのところにバグを抱えている。 幼児でも性的興奮を感じることがあり、それをうまく制御できない。 自分自身がバラバラに壊れそうになる。 この本でも「不快の快」として描かれているところ。 これが身体に潜んでいる。

バリントはこの「興奮」への対処法として、ルールに固執するオクノフィルと、逸脱に身を投げ出すフィロバットを挙げ、今の「発達障害論」の基礎を作っています。 両方の傾向は誰にでもあるんですけどね。 というか、両方あって情動が調律される。

ところが現代は「安心安全」に価値を置くオクノフィルな時代です。 飼い慣らされた範囲での「逸脱」しか許されない。 たまに雪山に挑んだりするフィロバットな人も現れますが、たいていの人たちはその冒険を見る「観客」です。 座ってコンサートを鑑賞するオーディエンスたち。 いっしょにダンスすることはありません。

音に身を任せてクネクネすると変な目で見られます。 「静かに」とも言われる。 そこに「音楽」があるのに身体が切り離されている。 身体はリズムを吸収して踊り出しそうなのに。 ゴーゴーとかマハラジャとか、知らない?

人間は餃子である

スリルは箱の中に収められている。 テレビやパソコンという箱の中に。 だからテレビから人が出てくればスリラーになります。 これは「餃子」ですね。 人間は皮一枚にくるまれている。 中は肉と野菜のミンチがカオスになっています。 囓れば熱い肉汁とニンニクの香りがほとばしる。 コース料理でリズムは言い表せない。

皮と餡とでリズムが生み出される。 どちらが多くても気詰まりです。 その塩梅というか加減というか、それがリズムとなりセンスとなります。

「動きすぎてはいけない」の頃は「どんどんどんパッ」でしたが、だんだんと「どんどんパッ」になって、「センスの哲学」は「どんパッパ」になりましたね。

ロジックに沿って進むだけだと展開しなくて、どこかに崩しや綻びの「パッ」を挟んで撹乱する。 「パッ」が起きると飛躍はあるけど展望が広がる。 その「パッ」のタイミングが今回は早くて、これまで以上に軽快でセクシーでした。

まとめ

生成AIまでも「リズム」として読み取るのかあ。 無敵だなあ。