Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「哲学探究」という戦い

いつ読んでも謎は尽きない。

野矢先生はわかりやすい

ウィトゲンシュタインの「哲学探究」を書いてあるままに丁寧に読もうという作品。

野矢先生は第一人者だけあって読みやすい。 日本語で考えている感じがしますね。 「ここはわかりにくいけど」「納得いかないなりに考えれば」と一文ずつ格闘しているのが伝わってくる。 一緒に考えながら「哲学探究」の迷宮を旅する内容になっています。

自分なりにわかった範囲で書くと、この本は「哲学」を治療する方法を模索してます。 これまで「哲学」は問題にならないものを問題と捉え、その答えを探してきた。 二重に間違えてきたわけです。 問題の立て方を間違えて、その問題に答えがあると思い込んでいた。 それでどんな結論が出ようと、どこか不自然なものになってしまうわけです。

なので、その病気を治すには「それは問題になっていない」と理解することです。 それが「哲学を治療する」ということ。 哲学を哲学する「メタ哲学」になっています。

これは哲学者だけの問題でしょうか。 いえいえ、普通の人たちの話なんです。 不祥事が起こると「規範意識が薄かった」と分析し、社員全体に研修会を開く対応を取る。 でも本当に「規範意識」なんてあるのでしょうか。

問題の立て方が間違えていて、さらに間違えた答えの探し方をする。 誰もが常日頃やっていること。 「問題」はそうした二重エラーの構造をしています。

ウィトゲンシュタインは汎用性ある「治療」を提案しているわけです。

これは心理学?

哲学探究」は言語ゲームとか出てくるので、ずっと言語学寄りの哲学だと思っていました。 言語哲学とか分析哲学とか呼ばれてるし。 でも、野矢先生の本を読んでいたら、ふと「心理学の話じゃないか」と思いました。 根拠はないんですけどね。

哲学探究」は1951年にウィトゲンシュタインが亡くなってから、遺稿として編纂された本です。 オーストリア生まれのユダヤ人ですが、イギリスに移住し第二次大戦をやり過ごすことができました。 当時は精神分析の全盛期でした。 と同時にアメリカでは行動主義心理学が台頭してきていた。

どうも「哲学探究」はこの二つの心理学を意識している。 どちらにも与しない第三の道を模索しています。 「内界と外界がある」という立場も「振る舞いがあるだけ」という立場も、両方とも袋小路に陥る。 別の前提から始めないと「心」について語れないんじゃないか。 そういう問題意識ですね。

「心について語る言語ゲーム」が先にあり、その効果として人の中に「心」が形成される。 「事後的に心が生まれる」というのが、ウィトゲンシュタインの考えた「新しい心理学」だと思う。 この仮説でうまくいくかどうか。

彼の綱渡りが始まります。 日常のいろいろな場面に自分の仮説を当てはめ、検証していく。 「哲学探究」はそんな実験をしている印象を受けました。

三つの疑問

個人的には中頃で出てくる「三つの疑問」が面白かったです。

  • 「閃き」とは何か
  • 言葉を使わない思考はありうるのか
  • 「ピッタリ来る」とはどういうことか

この三つ。 このブログでも時々そんな話題を振ることがありますが、この三つにはいい説明ができないんですよね。 文章を書くときにぶつかる疑問ではあるけど。 やはり一筋縄ではいかない問題であったか。

通常は「頭の中に言葉にならない何かがあって、それが唐突に意識に上ったり、言語化されたりする」と考えるわけですけど、そうした説明の仕方を「本当かなあ?」と考え直してみる。 「喉まで出かかっているんだけど」という人の喉を切り裂いても「何か」がそこにあるわけではない。 あるのは「喉まで出かかっている」という言葉の表現です。

あるいは「ラーラーラ、ララーラ、言葉に出来なぁーい♪」という歌があるとしても、それは「言葉に出来ない」という言語ゲームである。 言語ゲームだから、それを聞いた人も「ああ、言葉に出来ない思いがあるんだな」と共感することができる。 ふたりの間に事後的に「心」が生まれるわけです。 ヴァーチャルな存在として「心」があり、それに実体はなくても実効性はある。 色即是空

これはあれかな。 全然言葉のわからない東南アジアの街を歩いていると、そこらじゅうに読めない文字の看板を見かけます。 幾何学模様の装飾と同じように見え、エキゾチックな雰囲気を醸している。 それが少しでも文字が読めるようになると、その空間が意味や情報に満たされ「模様」としての側面を消してしまう。 読めてしまうことで新しい言語ゲームが始まってしまう。 あの感じだろうか。

夢とは何か

ウィトゲンシュタインがやり残したとすると「夢」かな。 夜に見る夢。 あれは言葉じゃないんですよね。 体験そのものが頭の中を流れていく。

言語ゲームで説明するにも暗礁に乗り上げそうな気がします。 本を読む体験に似てるんですけどね。 本に没頭していると、書いてある情景が浮かび、登場人物の心情を追体験している。 あれは文字を介して「夢」を見ているような感覚のものです。

「読む」という言葉は「夢」の親戚じゃないかと思います。 「yomu」と「yume」。 母音が替わっているだけ。 「心を読む」や「空気を読む」のように、文字以外も「読む」の対象になります。 「闇」や「黄泉」のように、明るい表面の反対を指している。

この「夢」の起こるところも「心」だと思うけど、これも言語ゲームとして捌けるものなのだろうか。

まとめ

「それは夢だよ」と言われることで「夢」と知るわけだから、たしかにそれ以前は「現実と夢の区別もつかない」の状態ではありそう。 ただ「未分の体験そのもの」と西田幾多郎みたいに考えると、ウィトゲンシュタインに「莫妄想」と言われる感じか。