Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

『アリストテレスの哲学』を読む

読みやすかったし、わかりやすかった。

アリストテレスの哲学

アリストテレスはたくさんの概念を作った人で、それは哲学だけでなく日常語にも及ぶ。 たとえば「概念」というのもそうですね。 普通に使ってしまう。 考えるためのツールをいっぱい用意してくれた先人です。

ただ後の時代の人たちは自分の時代の意味づけでアリストテレスを読んでしまうため、賛成するにしても反対するにしても、アリストテレスを誤読してしまう。 そこをできるだけ古代ギリシアの文脈で忠実に読み直してみましょう、というのがこの本の趣旨です。 当時はどんなふうに言葉が使われていたか、と。

たとえば『霊魂論』がありますが「プシュケー」の話ですね。 「サイコロジー」の語源だから「魂」と訳されたり「心」と訳されたりしています。 でもそういうものとして読むと違和感がある。 たしかに「心」の話もしてるけど、そうじゃない議論もしている。 「植物のプシュケーは栄養摂取」みたいな話とか。 それはなぜか。

それは当時の「プシュケー」が「生きていること」を意味しているからです。 アリストテレスは「生きているとは何か」を論じているのであって「心」の話をしているのではありません。 「身体」と対になる「心」はデカルト以降の話です。

アリストテレスの分析方法は語用論です。 ある概念が日常会話でどう使われているかを収集し、そこに構造を見出す。 「生きている/生きてない」という言葉の使われ方から「生きているとは何か」を導く。 「政治」にしても「偶然」にしてもそうした分析が行われています。 共通点を探りながら差異に気を配り、分類しながら理念を抽出する。

形而上学

さて、普通の議論のところはいいんですよ。 アリストテレスの解説本を読むと、たいてい論理学から形而上学に移るあたりで「???」となります。 何が書いてあるかわからなくなる。 「ああ、自分の頭は哲学に向いてないんだろうなあ」と打ちのめされます。

形而上学」は名前がゴツいですが「自然学のあとに置かれたもの」くらいの意味です。 メタフィジカル。 「あるとは何か」の存在論について書かれたとされています。 be動詞にあたるものの用例を集め「beとは何か」を論じている。

今回この本を読みながら「でもこれ、『ある』じゃないんじゃないか」という気がしてきました。 というのも「自然学のあとに置かれたもの」の「自然」が独特だからです。

アリストテレスの「自然」は生成流転する自然です。 決して静止した存在ではない。 当時のギリシア哲学では「飛ぶ矢は飛ばない」や「アキレスとカメ」のように「変化」を扱うことを避けていた。 理屈で考えると「変化」は扱えない。 ロゴスは「永遠」を志向するところがあり、それが「イデア」に繋がるわけです。

たぶんアリストテレスはそれを嫌い「自然」を「変化するもの=生きているもの」として考察しようとした。 そこが彼の「わかりにくさ」かなと思いました。

つまりbe動詞を「ある」ではなく「なる」として読もうとした。 物事の変化を捉える動詞として分析している。 そう考えると形而上学の部分も少し読みやすくなります。

「AがBになる」。 大理石が刻まれヴィーナス像になる。 するとそこには素材としての「大理石」と機能としての「ヴィーナス像」が存在します。 この素材を「ヒューレ」、機能を「エイドス」と名付け、「変化」を考察するツールとして磨きあげている。

本質と実存

ただ面倒なのはbe動詞に二つの用法があることです。

  • そこに何があるか
  • それは何であるか

「がある」と「である」が同じbe動詞で表現されている。 「がある」は「延長」、「である」は「本質」と呼びわけられ、長い間「本質」を捉えるのが哲学とされてきました。 プラトン的にはそうなんですけどね。 これを「本質より先に延長がある」として「延長」を「実存」と定義し直したのが実存哲学。 「そこにあること Dasein」を中心に据えたわけです。

でもアリストテレスはそんなこと関心なさそうです。 「なる」からすると、彼がしたのは「主語」と「述語」の発見じゃないかなあ。 「がある」の方が「主語」で、「である」の方が述語。 「彼は教師である」という文を考えると、変化するのは「教師」のほうなんですよね。 「彼」が「教師」を退職しても「彼」であることは変わらない。 「彼」が消えるわけではありません。

「主語」は変化しないけれど「述語」は変化する。 自然現象は「変化しないもの」と「変化するもの」が組み合わさっている。 これを「素材」と「機能」の融合と見れば「変化」も記述できるんじゃないか。 アリストテレスの独創性はそんなところでしょう。 そこに古代ギリシア語の文法が絡んできてカテゴリー論とか、日本人の「私」にはわかりにくい。 そうなっている気がします。

「本質」の方に「変化しないイメージ」がついちゃってるからなあ。 でもこれって「x = alive」の「=」は等式じゃなくて代入式だってこと? プログラミングで見ればいいのか。

まとめ

早く古代ギリシア人になりたい。