Jazzと読書の日々

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「ハンス・ヨナスの哲学」を読みながら

「スマートな悪」が面白かったので戸谷先生の本を続けて読みます。

ハンス・ヨナスの哲学

この本も面白いですね。

ハンス・ヨナスはハイデガーの弟子でアーレントのズッ友。 ユダヤ系のシオニストパレスチナへの移住も考えたけど、結局イスラエルの方針とそりが合わずカナダに亡命した人です。 現代的なテーマが詰まっているのになぜか日本での知名度が低い。

ポイントはグノーシス主義研究。 キリスト教初期からある邪教ですね。 プラトンの「ティマイオス」に準拠し、旧約聖書の神を「イデア界を模倣しようとした、劣った創造神」と見なし、キリストを「イデア界から来た救世主」と考える思想です。

これが歴史の暗部で脈々と受け継がれ、ニュートンとかもその信者だった。 西洋科学の基礎にあります。 だって「摩擦のない世界では等速運動する」というのは、イデア界の言い換えでしかありませんから。 現実世界はいろいろな「摩擦」で苦労するのよ。

日本人はグノーシスに無知なので、ヨナスが何を言っているのかわからない。 「科学」を宗教の一つと見なせないので、それを相対化する視点がない。 日本の宗教は「カーゴ信仰」というか「舶来ものは偉い」でしかないので相対化が苦手です。

この本でもグノーシスについての深掘りは避けています。 そこを掘ると読者がついていけなくなるから、という戸谷先生の優しさでしょう。 でも、どの論にも基調にグノーシスへの批判的眼差しがありそう。

アリストテレス

アリストテレスですね。 グノーシスを相対化するのに必要なのは。

まず生命論で「質料と形相」を復権します。 今の生物学は「どういう物質でできているか」という質料の話になっています。 ゲノムを考えるにしても塩基の配列で説明する。 それはどれだけ研究を積み重ねても「生きているとは何か」に行き着きません。

というのも「物質で考えること」は「生きているものを死んでいるものに還元すること」だからです。 塩基は生命体ではないのだから、そこを調べたところで「生命」は取り出せない。 今の科学は「死んでいるもの」しか扱えない。

「生命を考える」とは「生きている」という現場を捉えることです。 「現存在」としての生命。 こちらを「形相 Form」として考察する。 内界と外界に分かれ、その間で代謝が行われている。 代謝によって自己を維持しようとしている。 その機能的な側面。

無生物に「代謝」はありません。 銅でできた空き缶は空気中の酸素で錆びることはあっても、それは「代謝」ではない。 そこに「生きようとする意志」がないからです。

生命には意志がある。 目的がある。 それが「生命」の特徴です。

さらにヨナスが「植物生命・動物生命・人間生命」と分けるのも、アリストテレスの「魂論」の焼き直し。 「魂 psyche」をギリシア語の古い意味「生命」として読み直します。

生命活動は代謝の活動であり、動物はその代謝のために「移動」という要素が付け加わる。 根から栄養を吸収する方法を放棄する代わりに、動物は自らが移動して餌を取る方法を採用します。 これは「移動できなくなると餌が取れない」というリスクを伴う。 これが動物生命の特徴となります。

ホモ・ピクトス

では人間生命の特徴は何でしょうか。

ここからのヨナスが面白い。 「もし他の星にロケットを飛ばし、その惑星を探索するとして、どういう痕跡があれば『宇宙人がいる』と判定できるか」。 つまり、代謝活動の痕跡があれば「宇宙動物」がいると判断しますが、それだけでは「宇宙人」とは呼べません。 プラスアルファがある。 それは何か。

ヨナスの答えは「何かが描かれていたとき」です。

洞窟の壁に牛とかの絵が描かれていたら「この星には宇宙人がいたのだ」となる。 三角形や四角形でもいい。 彫刻でも構わない。 何かと言えば「像を作る能力=ピクトス」です。 これが「人」と判断する目安になっている。

「像」とは何かを何かで表象することです。 「言葉」の機能ですよね。 でもポイントはそこではありません。 ヨナスは「無駄なことができること」と読み取っています。 有用性を棚上げできる。 そんな能力が「人間らしさ」にあります。

もちろん、描いた本人は「牛がたくさん狩れますように」と願いをかけていたかもしれません。 でもそれは直接有用なわけではない。 動物ならそんな無駄はしません。 ダンスを踊るにしても小石を集めるにしても、餌の位置を示す役割や素敵な配偶者を見つける直接的な手段です。 役に立つ。 動物は有用性に縛られています。

人間は「役に立たないこと」ができる。 「スマートな悪」にあった「ガジェット性」のこと。 あれは、このヨナスに刺激されて出てきてたのかな。 すると「スマートな社会」とは「人を動物として扱う社会」。 金の卵を生む養鶏場のイメージ。 そりゃあ、少子化が問題になるのは必然だわ。 産めよ、増やせよ、地に満ちよ、と。

でもヨナスの論点はそこではないです。 「像=ピクトス」に焦点を当てるのは「対話=ロゴス」を避けるため。 対話に重きを置かない。 これは哲学として珍しい。 なんでそんなことを言い出すのか。

それは「未来への責任」を俎上に上げるためです。 地球温暖化原子力、遺伝子操作の問題など。 それらを考えるとき、今いる人たちで対話しても「答え」は出ません。 どんなに善良で賢い人たちで対話したとしても「解決」には繋がらない。

なぜかといえば、それらの影響が出るのが「未来」だからです。 どんな影響が出るかわからないし、わかったときに困るのは「私たち」ではない。 たぶん、いろいろなことが複合的に交互作用を起こすだろうから、今それをシミュレーションもできない。

未来の人たちが「ほんとになんてことしてくれたんだ」と困る。 場合によっては生命の危機に瀕する。 でも、そうした「未来の他者」と対話するすべはありません。 対話のないまま、でも「責任」はある。 それが現代の置かれた状況です。

この「摩擦」を無視してスマートな決定をしてはいけない。

後半戦

これから「では責任とは何か」に突入します。

「ピクトス」がキーワードだろうけど、何か魔法陣を描いて「未来人」を召喚するのだろうか。 いやいや、召喚できたとしても禁則事項ばかりで対話にならないか。