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「書く」という病い

白いプリンターの紙に書き込もうとしている人の写真 – Unsplashの無料健康写真

文章を書くことは病気である。 平和に過ごしているとき何かを書きたいとは思わない。 ただ日々が流れていくだけだ。

「書く自分」と「読む自分」がいる。 自分が分裂している。 不和を抱えている。 この分裂を修復する試みが「書く」なのだろう。 「書くこと」をやめたところで分裂はなくならない。 「症状を消せば解決する」でないところが難しい。

自己の分裂

状況を整理するために書くことがある。 タスクリストをリストアップしてみる。 そうした作業でも「書く自分」と「読む自分」が生まれる。

「書く自分」と「読む自分」は葛藤を起こす。 葛藤があったから分裂するのか、分裂したから葛藤するのか。 それはわからない。 同時に生起するのだろうか。 「卵が先か、鶏が先か」と同じ共時関係にある。

書くことをしない場合「葛藤」は状況として生じる。 葛藤を抑圧する人は自らが「抑圧する側」に回り、誰かを「抑圧される側」に据えることで「葛藤」を演じる。 いわゆるパワハラだ。 それもまた自分の「健康」を保つ手段なんだろう。

葛藤を無視する人は自らが「無視する側」に回り、誰かを「無視される側」に据える。 こちらはネグレクトである。 国会の答弁を見ていても「知らなかったから許される」というロジックがまかり通っていて、聞かされる方は無力感に陥る。 こちらの問いかけが無視されるからである。

「書くこと」は状況を引き受けることである。 パワハラがあるならパワハラの構造が、ネグレクトがあるならネグレクトの構造が自分の内界に構築される。 要らないものを背負い込む感じだ。 「書きたがり」は自分から病気に飛び込む。

「書く自分」に対し「生意気なことを言う」と声がしたり「よくあることでしょ」とスルーされたりする。 「状況」が自分の「葛藤」になる。 これはたまらないなあ。 ああ、苦しい。 あたしはマゾか。 この「葛藤」は自分の葛藤なのだろうか。

帰属問題

ストア派の「他者を変えることはできない」という考え方がある。 あれに従うと自分だけの「葛藤」があるような気分にさせられるが、それは嘘だろう。 他者と無関係な「自分」などないし、自分の「葛藤」は他者との関係から生じる。

自他のいずれに帰属させるかという意識がそもそも間違えている。 そうかもしれない。 どちらにも関わるし、どちらかでは解けない。

自分の葛藤として引き受けることで、不用意な拡散を自覚できるようになる。 「書くこと」は病気ではあるが、他者を巻き込んだ「状況の病い」になることの回避でもある。

そのことには意味があるけれど、それだけだと「他人に迷惑をかけるのはやめましょう」という話だ。 それはパワハラやネグレクトの温存になる。 生きることは「迷惑」の連続である。 「大きな迷惑」は迷惑だが「小さな迷惑」まで禁じては埒があかない。 「小さな迷惑」は「大きな迷惑」と戦うための対抗策になる。

シミュレータ

「書くこと」は対話のシミュレーションである。 「書く自分」と「読む自分」の対話が進むなら、それが「状況の病い」についてのヒントになる。 自分を批判する「声」が湧いてきても、そこに耳を傾けないことには先に進めない。

「状況の病い」は一方的に押さえつけたり無視したりする構造なので、そこに対話はない。 対話が問題を解決するわけではないが、少なくとも対話があれば「状況の病い」は解消している。 それを先行して思考実験するのが「書くこと」である。

シミュレーションすることで「状況の病いの解消後」を先取りできる。 どうなると、その場の「葛藤」が終息したことになるのか。 それをイメージできる。

「書くこと」は「考えること」ではない。 「考える」は「要するに〜ということだ」という結論を目指す。 「書く」はそうではなく、もう少し演劇的である。 いろいろな登場人物がいて、それぞれが自分の生き方を持っている。 ポリフォニックである。

なので「葛藤の終息」は結論に至ることではなく、それぞれの「声」が交差することである。 いろんな立場の語りが表に現れ裏で独白し、混じり合ってまろやかになる。 ジグソーパズルのピースが埋められ、全体でどんな風景になるのかが見えてくる。

まとめ

「考える」と「書く」は異なる。 そんな結論になるとは考えてなかった。 いやはや、今回も「目の鱗」が見えたのでこれを宿題としておこう。