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ウィズ・コロナという考え方

a woman working from her home during the coronavirus outbreak|600 Backlink | Photo by engin akyurt on Unsplash

コロナがまた流行していて病床が逼迫しているらしい。 「らしい」というのはそのための情報を見かけないからである。 もちろん探せばあるけれど、一般の目に触れる機会が減っている。 「ウィズ・コロナ」とは何かを考え直してみたい。

コロナ第10波

定点観測になってから、どう増えているのか把握しづらい。 以前の流行時と指標が違うからである。 いくつかグラフの中に去年との比較が入っていて、それを見れば災害級の波が押し寄せていることがわかる。

ただし、これが正確な罹患数を表しているわけではない。 5類に移行したことで病院を受診しない人も増えているからだ。 なので軽症の人たちは数字に含まれないと考えていいだろう。 どこでウィルスをもらうかわからない。 クラスターが発生しても、今までみたいに表面化もしない。 そうした状況にある。

抑圧から解離へ

以前「日本の歪み」を読んで循環分析を試みたことがある。 日本は海外からの外圧によって政治体制が変わる。 その変化後の経過において「主体化→抑圧→解離」と進み、最終的に問題がなかったことにされる傾向がある。 次の外圧に出くわすまでは都合の悪いことには目も向けない。 そのことで生きづらさが増大していく。

まあ、日本だけではないし、政治の領域にも限らない。 人間という生物の持つ習性なのだろう。 要するに「慣れ」というものだ。 苦痛を抑圧/解離することで問題への過敏反応を鈍化する。 災害から復興するにも「慣れ」が必要だし、進化の過程でも環境とのバランスを構築することが適応の要件だからだろう。

他者との共存

ウィズ・コロナは他者との共存である。 主体化によって他者を撲滅しようというのでもなく、抑圧によって他者を隔離するのでもない。 まして解離によって他者の存在を無視することも適切ではないだろう。

こうした撲滅・隔離・無視はイジメの構造と変わらない。 暴力や仲間はずれ、ネグレクトといった虐待である。 あるいはガザ地区で行われているジェノサイドもそうだろう。 それは共存の拒否であり、今の世界に蔓延しているダークサイドである。

ウィズ・コロナの「ウィズ」を考えることは「共存」をイメージすることである。 そこにあるけれど、程よい距離を保つこと。 言い換えてみれば、次の3点になる。

  • 視野から外すのではなく、そこに目を向けながら生活を脅かさないようにすること。
  • 罹患しないに越したことはないが、もし罹患しても適切な治療を受けることができること。
  • ロング・コヴィッドのような後遺症に対し、労働する権利が保証されること。

この3点が現在うやむやにされている。 まず目を向けるにも情報が入ってこない。 治療を受けるにも有料化して受診しづらい。 後遺症が出ると休職や失業のリスクが高まる。 5類に移行したことで「共存」のための必要条件が失われた。 これがとても困る。

パーソナル・スペース

すでに矛盾があったところに「外圧」が加わることで、その矛盾が露呈する。 それが「問題」という形態を取るだけで、問題が「問題」なのではない。 問題は矛盾を検知する装置として現れる。 指標として活用すればいいだけだ。

「他者との共存」は今の民主主義社会のテーマなのだろう。 そもそも一部の地域に人が密集しすぎていて、パーソナルスペースが崩れていたのだと思う。 ソーシャル・ディスタンスは名前の通り「社会的な距離」である。 もっと田舎に分散しても生活には困らないんじゃないか。

まとめ

後遺症の情報がもう少しほしいかな。 後遺症を抱える人をどうサポートすればいいのか。 そういう情報はそろそろ集まっても良さそうだけど。