Markdownは箇条書きで書くようにできています。 文を一行ずつ書き、プレビューすると一固まりになる。 そんな仕様になっている。
それはプログラミングと同じですね。 まずソースを書き、コンパイルして実行ファイルを作る。 そうしたプログラマー的な発想がもとになっています。
空行
Markdownで一番重要な記号は「空行」です。
見出しや強調の記号も大事ですが、それよりも空行ですね。 「行を一行空ける」が重要な働きをしている。 これがないと文章は書けません。
なぜか。 もし空行がなくなったら、改行のない、のっぺりした文章しか作れないからです。 それは読みにくい。 文字が全面に詰まって息苦しくなります。 画面は真っ黒。 市販薬の注意書きみたいに鬱陶しい。
改行によって文章に「段落」が生まれます。 テキストが裁断され、段落というブロックとして扱われる。 これが空行の持つ効果です。
なぜでしょうか。 なぜ改行のない文章は息詰まる感じをさせるのでしょう。
これを今回考えてみます。
改行の意味
話し言葉の場合「段落」は存在しません。 テキストは句読点もなく固まりになっています。 それでも会話は成立している。 息詰まりを感じることはありません。
その代わり、会話には「間」があります。 少し喋って沈黙を入れる。 この間に相手が何か話し始めたらそれを聞くし、そうでなければ再び話を続ける。 この「間」がある。
「間」はいわゆるターンティキングです。 相手に話す順番を渡すジェスチャー。 言葉のキャッチボールをする工夫です。 こちらが投げたら、次は相手が投げるのを待つ。 これがないと片方が一方的に喋り続け、キャッチボールになりません。
文章の改行はこの「間」に当たります。 実は読者の反応を待っている。 段落をボールとして投げ、それを受けてもらうのを待つ。 「ここまでわかってもらえたでしょうか」。 書き手の不安がちょっと覗くところですね。
読み手も「さて?」と自分の内から湧く反応に注意を向ける。 読み終えて感想を抱くタイミングです。 「本当かなあ」「どうも腑に落ちないぞ」とか。
他者の生まれるところ
書き手にとっても、空行が他者の介入するポイントです。 読者目線が入る。
それまではテキストに没頭しています。 没頭というか、テキストに飲み込まれ流されている。 その間は空行が入りません。 ただ湧いてくるまま書き留めているだけです。
空行が入るとき。 そこで我れに帰る。 我れに帰るとは他者になることです。 「この段落は何を書いているのだろう」と読者として読み直す。 自分で自分の書いたものの文意を汲み取ろうとする。 その瞬間が空行として現れます。
「我れ」は書き手ではありません。 読者です。 人の「意識」は他者の視線でできています。 なので手厳しい批評家になったりする。 ここは気をつけねばならないところ。
段落の推敲
空行を意識すると、最初のまま留めることは減ります。 推敲段階で変更するからです。
ターンティキングを利用して、読者に「順番」を渡すようにする。 自分はどこで読み手の反応を待ちたいか。 空行を使いながらその調整をしていきます。
空行が少ないと、読者は置いてけぼりにされたように感じます。 テキストは壁のように立ちつくし、読み手がツッコミを入れる隙間もない。 一つの段落が長いテキストは防衛的で閉じて見えます。 まるで政治家の答弁のように、読まれることを恐れている。
空行が多すぎても困ります。 一歩進んでは「どう?」と尋ねる感じだからです。 読者側にボールを投げすぎている。 フランクさの演出か字数稼ぎなのかわかりませんが、テキストが離陸していかない。 浅いところで話が終始しているように見える。
推敲のときに心がけるとしたら、空行を適切な量にすることです。 まあ、その「適切」が何かわかるなら世話ないのですけどね。 難しい。
独りよがりな講演
個人的には「やや独りよがりな講演」をイメージしています。 独りよがりなのは「私の考え」を書くからです。 普通の話を書いても面白くない。 自分が面白くない話は書いても面白くない。 なのでこれが「空行を減らす方向」に働きます。
「講演」なのはそこに聴衆がいるからです。 いろんな聞き手がそこに座っている。 反応が気になりますよね。 頷いてくれる人もいれば、腕組みしたまま寝ている人もいる。 この話、伝わっているかなあ。 そう気にすることが「空行を増やす方向」に機能する。
そんな感じで、空行を増やす力と減らす力、二つが拮抗する場面を利用します。 バランスは、矛盾する葛藤場面イメージを借りると見つけやすい。
まとめ
改行を増やしたからと言って、独りよがりは変わらないですけど。