Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

作文欲求は存在しない

white teacup filled with brown liquid near pink flower|600 Backlink | Photo by Sixteen Miles Out on Unsplash

「書きたいことを書きましょう」というアドバイスがある。 でも「書きたいこと」なんてあるのだろうか。 自分の中を探しても見つからない。 ああ、これは是非文章にしたい。 このことは言葉にして残したい。 そうした欲求。

どうにも不自然である。 無理にひねり出すばかりで、内から湧いてくるものではないだろう。 写真に残したいとか歌にしてみたいはわかる。 この感動を永遠に留めたいということだ。 でも「書きたいこと」ではない。 別のものと混同している。

ではその「別のもの」とは何だろうか。

対話欲求

「話したい」という欲求はありうる。 何か強烈な体験をして、その感動や恐怖を誰かと共有したい。 人が言葉を持つ動物である理由だ。 心のキャパシティに収まらない衝動が、肌を突き破って外に漏れ出す。 それは一種の狂気であり、その狂気を受け止めてくれる他者と出会うことで、日常の文脈に回収される。

井戸端会議がその典型例だろう。 内容は愚にもつかないものであっても、そこに驚きや怒りが込められている。

たとえばアイドルの自殺を知り「日常」にほころびが生じる。 それは一人で抱えても修復しない。 「死」が間近にある。 その恐怖と、そこはかと感じる享楽。 そのままでは自分自身も「死」の間隙に飲み込まれてしまう。

日常を修復するには他者の返答が必要になる。 「その人にも何か事情があったのだろう」。 答えにならなくても、応えにはなっている。 その人はその人、私は私。 アイデンティティ。 その応えが日常にできた「穴」を塞ぎ、安心をもたらしてくれる。

思索欲求

「考えてみたい」という欲求もある。 何か違和感に気づき、その理由を探っても腑に落ちない。 「なぜなのか」と疑問に捕まり、そこから抜け出せない。

対話欲求と同じ「日常のほころび」への反応ではあるが、応えでは満足できない。 表面的なフィルターを貼っても収まらない。 魂が揺さぶられ答えを求めてしまう。

なので、他者からの返答ではなく、自分自身の納得が重要になる。 「なるほど」と得心したい。 その場合は妥協なく考え抜いて真理に近づこうと試みる。

真理とは主観的なものだ。 「ああ、そうか」と衝撃が走り、それ以上考える必要を感じなくなる。 それが「本当のこと」の感覚である。 客観的に「これが真理です」と言われても意味がない。 しかも理由を尋ねているのに、世の中は原因を答えとする。 原因を知りたいのではない。 この出来事にどんな意味があるかを知りたいのだ。

落としどころが見つかるまでは夜も眠れない。 そうした不眠への唯一の特効薬が「真理」である。 それは人によって異なる。 遺伝子で説明すれば納得できる人もいれば、秘密組織の陰謀で納得できる人もいる。 落としどころの回路が異なる。 それは人生の中でどう形成されていくのだろう。 遺伝子によるものか、秘密組織の陰謀なのか。

そのことを考えると夜も眠れなくなる。

読書欲求

「読みたいこと」という欲求もありうる。 「書きたいこと」ではなく、自分が読者として「読みたい話」を書いていく。 読者としての欲求である。

他の人の書く話も面白いけれど、でもその人の面白いだから、ちょっと自分には合わない。 「自分が読みたい話」はもう少しねじ曲がって、でも、ぎゅっとシャープで、グワァッと展開するようなので、とか考え出すと、もう自分で書くしかない。 自分が読んでワクワクする話、納得する話、もう1回読みたくなる話。 そうした文章を書いてみたい。 そういう欲求がある。

それは対話や思索とは別の衝動だと言える。 なぜなら、自分から日常に「穴」を開ける行為だからだ。 出来事への反応ではなく、出来事の創造である。

これはプログラミングに通じる。 「こんなツールがあれば便利だろうな」と思えば、自分で作るしかない。 作りたい欲求があって作るのではなく、使いたい欲求があるから作るのである。 事情はテキストでも変わらない。 「書きたいこと」を考えても仕方ない。 自分の「読みたいこと」を考える。 読書欲求がテキストを生み出す。

まとめ

というような文章を読みたくなったので書いてみました。

読むほうは1回しか読まない文章でも、書くほうは何回でも読み直す。 この「読み直す」が楽しいから、たぶん書くのだろうなあ。 「読みたい」が動力だと思う。