Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

テキストの四則演算

思いついてしまったもので。文章を書くときにも、文を足したり引いたりするなあ、と。足し引きがあるなら、掛けたり割ったりもあるのかな。考えてみました。

足し算

足し算は簡単ですよね。文章をどんどん書いていく。だんだん長くしていくことです。思いついたら、それを書き足す。普通にテキストを育てていくあり方です。

引き算

引き算は推敲ですね。要らない文章を削っていく。何しろ、最初は思いつきで書いたものだから、論旨とずれたことも出てくるし、流れが関係ない方に進んでいったりする。そこを引く。凸凹したところを均して、読みやすくする作業です。

掛け算

じゃあ、掛け算は何だろう。縦横がある関係だろうか。たとえば、二つの選択肢があるとき、それぞれのメリットとデメリットを考える。2×2の表に当たるものを文章に落とし込むこと。平面を扱う思考のことだろうか。

あるいは大喜利の「梅雨前線と掛けて、青のつかない信号機と解く」の「掛け・解く」にある掛け算。異なるアイテムの出会いに「その心は」と問うこと。これかな。掛け合わせの、ハイブリッドな思考法。それが「掛け算」と言えるかもしれません。

割り算

掛け算の反対の思考になるはずだけど何だろうなあ。一つの文章だと思っているものを「割る」。この言葉のイメージからすると、一段深く分析することを指していそうです。「比率 ratio」から「理性」という言葉が作られたらしいし。

自分が「わかっている」と思っていることを、一度疑うこと。「AはBである」という結論を書いたあと「本当か?」と自分を疑い、その文章を割っていく。結論が該当しない状況を見つけ出し、それに対しても答えてみようとすること。そういう作業が「割り算」かもしれません。「割る」から出るのが「笑い」であるような。

内的対話

「書くこと」の基礎になるのはこの4つ。もし、そう仮定してみると不具合は起こらないだろうか(こう考えるのが割り算ですね)。

はい、ここで筆が止まりました。このとき自分の中で「書いたもの」と対話していますね。「そもそも、書くって何だ?」とか「この話に落とし所はあるのか」とか。「書いたもの」に尋ねている。

書くことは対話の継続です。自分が書いたことなのに、書かれた瞬間に時間差が生じ、まるで「自分ではないもの」になり、自分がその読者になる。そういう作業の連続です。書き手と読み手に自己が分裂し、問いを投げかけ合う。

ああ、掛け算は積分的思考で割り算は微分的思考か。読み手の側が妙な納得をします。何だ、その積分的思考って。書き手が定義を尋ねてくる。今度は読み手が書き手に回り、立場が逆転します。そうやって「書くこと」が進んでいく。

基礎演算

問いに答えることで、新しい問いが生まれ、対話が進んでいく。それが「書く」の正体のようです。その対話の進行が「足し算」。これが基礎ですね。

それに対して、読み手によるツッコミに三つの形があるのだろう。言ったことを無しにする「引き算」、一段メタの次元に上がってみるのが「掛け算」、反対にミクロの方に踏み込むのが「割り算」。「木を見て森を見ず」が割り算で、「森を見て木を見ず」が掛け算になるかな。視点レベルの移動が起きている。

引き算は「なかったことにする」だから「森も木も見てない」、というわけでもなさそうです。書き終わったあとには消えているけれど、書いている最中は目前にあるわけで、なんらかの影響を残している。それが消えたとしても、文章の行間に「匂い」として染みつくんじゃないかと思います。虚数空間として広がるというか。

まとめ

Logseq 0.7.0
分類: 仕事効率化
価格: 無料 (Logseq, Inc.)

四則演算はLogseqのことを考えていて思いついたようです。ここまで書いて気づきました。ああ、アウトライナーの話だったか、と(こういう「気づく」という現象は内的対話では説明できないなあ。オグデンの「第三主体」の介入を感じる)。

ズームが割り算ですね。ズームアウトが掛け算で。何を思ったかというと、Logseqに「引き算」がないことでした。トピックを消す方法がない。

他のアウトライナーであれば、トピックをチェックアウトしたりゴミ箱に捨てたりする操作があるのに、Logseqにはない。地道に文字を消していくしか無いのです。これがLogseqの哲学に関わるのかな、と思うけど、文章を組み立てるのに使いにくい。

何故なんだろう。