Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ライティング・セラピー

新しいエディタが出ると試してみたくなる。病気である。一定数の人たちが罹っているらしい。とくに最近のエディタ界隈は賑やかだ。どのアプリも魅力的である。

いや、昔からエディタの世界は面白かった。いまに始まったことでもないだろう。探せば、過去の哲人たちも「書くこと」に一家言を持っている。この病気は太古から世界中で蔓延していたに違いない。

園芸師か建築家か

最近「GardenerかArchitectか」という議論を見かける。書くことは「農業」なのだろうか「工業」なのだろうか。そうした話である。書く人のタイプ分けに使われたり、ノートアプリの分類になっていたりする。

自分自身を「園芸師」のイメージで捉えるか「建築家」のメタファーで理解するか。それは「文章を育てる」か「文章を組み立てる」かの二項対立である。どちらが自分に合っているのだろう。あらためて振り返ってみると興味深い。

たとえば、書くことを「農業」と感じている人は農業的なエディタを使い、そうしたエディタを使うことでますます書き方が農業的になっていく。そうした相乗効果があるのだろう。「工業」と捉える人はその反対に進む。そして、そのことに気づいていない。目を覚さねばノートアプリに取り憑かれてしまうかも知れない。

農業的なノートアプリ

WorkFlowy: Note, List, Outline 3.12.9
分類: 仕事効率化,ユーティリティ
価格: 無料 (FunRoutine INC)

植物を育てるようなエディタ。タネを蒔いておくとすくすく育ち、実れば収穫する。この立場は「エバーグリーン・ノート」といった考え方によく現れている。

今風に言えば「中動態のノート」だと思う。アイデアは生えてくるものであり、所有権は人間側にはない。アイデア自体が変化する。人がするのは、その成長を助けること。良き偶然は歓迎される。そうしたスタンスである。

WorkFlowyはとくにこの感じが強い。アイデアを書いておくと、その周辺に連想が広がっていく。何か形が見えてきたら刈り取り、少し整えて文章に仕上げる。そこには農作業の趣きがある。書き上がったときの満足感はひとしおだ。

工業的なノートアプリ

Logseq 0.7.4
分類: 仕事効率化
価格: 無料 (Logseq, Inc.)

プラモデルを作るようなエディタ。設計図があり、それに合わせて材料を集め、組み合わせて仕立てる。PDCAとか好きそうなタイプ。もちろん、増改築にも対応し、ループがくるくる回る。なぜかお役所的な駄洒落が目立つのも特徴だ。

こちらは「能動態のノート」である。主体は人間側にある。アイデアは集めるものであり、それを素材とし建造物を構築する。テーマが明確にあり、PDFなどの資料管理もエディタで行う。ToDoリストで生活を管理する。

Logseqはこちらの感じがする。wiki的なものはビルディングで、それぞれに「部屋」を割り当て居場所を作る。「部屋」には出口があり、他の「部屋」への移動も行いやすくなっている。脱構築や再構築が繰り返されるが、主体の思惑から大きく外れることはない。「わかりやすかったです」という感想をもらうなら、こちらだろう。

そもそもなぜ書くのか

「書くこと」は「頭と身体の対話」である。とくに「誰にも見せない文章」の読者は「自分の身体」しかいない。身体の反応に注意を払いながら、ピッタリくる言葉を探したり、腑に落ちるところへ流れたりする。モヤモヤしたままでは落ち着かない。

ただ、そのままでは散漫になる。書かれたものを読み直し、そこに隠れたテーマを見つけるのは「頭」の仕事である。批判的に検討し、反証を列挙したりして論を整理する。バッサリと断捨離を執行すれば、状況がクリアになっていく。

「頭と身体の対話」が進むことで自分自身が調えられる。サウナと同じだ。このプロセスを「身体」から見るとき「園芸」となるし、「頭」からは「建築」となる。すると、先の二項対立は、対話プロセスをどちらから記述するかの違いでしかない。

もちろん、一方的になるとプロセスは崩壊する。支離滅裂になる。そのバランスを保ちたいので、ノートアプリが出るたびに手を出してしまうのだろう。新しい「薬」を欲しがる依存性のように。もっとノートを、もっとプラグインを。

まとめ

書くことはセラピーである。セラピーは治療ではない。むしろ病気である。すべての病気には「頭と身体の対話」という側面がある。その中で、比較的害が少なく済むのが「書くこと」なのだろう。無いと困る人には無いと困る。

そんな言い訳をしながら、また新しいノートアプリに飛びついたりする。懲りないから心の凝り(心残り)もない。うふふ。