Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「物語」の二つの形

まあ、どうでもいい話なんだけど。

物語

「物語」には「ヒストリー」と「ミステリー」の2種類がある。 これが最近引っかかっています。 自分自身が今まで区別できなかったからだろうなあ。

ヒストリーは「原因があって結果が起こる」の語り口です。 因果関係で説明する。 「事件Aのあと事件Bが起こった」のとき「AはBの原因だ」と思う考え方。 ヒュームが「それは観察者の解釈に過ぎない」と否定しようとした。 でも現代では「ヒストリー」が科学的と見なされているし「エビデンス」ってそういう発想法に裏打ちされている。 結構根強い「物語」です。

ミステリーはこの因果関係が逆転している。 「過去→現在」ではなく「現在→過去」のベクトルでできている。 出来事Bが起きてから「あの出来事Aはそういうことだったのか」とわかる。 あとから過去を意味づける語り口です。 ナラティブで「オルタナティブ・ストーリー」と呼ばれているヤツですね。

ヤスパースが「説明と了解」を区別したのと関係あるかもしれません。 説明はヒストリーで、了解がミステリー。 症例を記述するとき「こうした家庭環境のせいでこの症状となった」と書けば「説明」。 家庭環境を「原因」と見なして説明をしている。

対して「了解」は患者さんの立場に立って追体験する。 「その症状はあなたを守ってくれたのかもしれませんね」という捉え方です。 過去の出来事を新たに意味づける。 「原因」ではなく「理由」を探っている。

思い込み

この2つの「物語」、区別がつけにくいですよね。 なんでかな、と思ったんですが、ミステリーとして受け止めたとしても、語ったそばからヒストリーになるからじゃないかなあ。 「あれはそういうことか」と了解しても、その瞬間「あれが原因だった」に堕ちてしまう。 「わかった」と思ったら、もう「思い込み」になる。

これはパルメニデスの女神が語っていたことです。 人間は真理と出会っていながら、それを「真理だ」と思い間違ってしまう。 まるで「ルール」であるかのように思い込むわけです。 パターンに封じ込めてしまう。

ミステリーに留まれない。 すぐストーリーとして読み込んでしまう。

なぜかと言えば、再利用したいから。 今後同じことが起こったとしても今度は対応したい。 そうした再現性のあるものとして扱いたい。 願望と事実を混同しています。

これは「迷路」と「迷宮」の違いでもある。 「迷宮」は迷宮をめぐることが目的であるのに、一度わかると「迷路」と取り違える。 早く出口に出ることが「目的」と思い間違うわけです。 宝箱を開けることなく迷宮から出てしまう。 そこなんだろうなあ。

ミステリーの「あとからそういうことだったのかとわかる」という現象をラカンは「事後性」と呼びました。 精神分析がそんなお仕事なのでしょう。 ハッと洞察が湧いて「そうだったのか」と自分に呪いをかけたり、その呪いを解除したりする。

でも面白い対話はあまねくミステリーです。 「そうだったのか」と過去の意味づけが書き換わる。 そこを深掘りすると「欲望のグラフ」になる。 これがとんとわからない。

元の図は「話S1から話S2に進むと話S1の意味が確定する」という単純な話だが、そこに「他者」やら「享楽」やらが絡んでいるという。 こんな魔導書を頭に置いて他人の話を聞くなんてできそうにない。 精神分析の人たちはそんなことしてるのだろうか。

普通の対話は「ミステリー」だけでいいんじゃないかと思う。

まとめ

そういうの、岸本佐知子を読んでるとどうでも良くなるのもすごい。 オチが来るまでどんな展開になるかわからない上に、オチが来ないときがある。

これも「物語」なのだろうか。