Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「ですます調」と音声入力の関係

Female singer’s performance|600 Backlink | Photo by Richie Lugo on Unsplash

音声入力はなぜか「である調」で喋っている。 これ、不思議ですね。 これまでなんとなく「ですます調」は口語文で「である調」が地の文だと思ってたんです。 小説とか、そうじゃないですか。 会話と描写で口調を使い分けている。 「ですます」が出てきたら、これは会話だな、と。 括弧がなくてもそう感じます。

他人行儀性

考えてみると普段の対話で「ですます」は使っていません。 方言を使うし、その方言も変換すれば「である調」です。 「ですます」は堅苦しい。 他人行儀な感じがします。

「ですます調」は丁寧語で、下の立場の者が上の立場の人に使うのかな、と考えてみましたが、そうでもなさそうです。 部署の若い人たちに指示を出すときも「ですます調」ですね。 そうしたときに「である調」で話すと情緒がないというか、何かコマンド入力してるだけというか。 そう、今度は「である調」が他人行儀になるんです。

プライベートな場面だと「ですます調」が他人行儀で、パブリックな場だと「である調」が他人行儀。 この「他人行儀」がキーワードらしいけれど、これはどういう感覚なのでしょうか。

距離の詰め方なのかな。 親密性の濃い空間で「ですます」を使われると「距離」を意識させられる。 親密性の薄い空間だと「ですます」はちょうどいい。 じゃあ「ですます」が距離の置いた話し方かというとそうでもなく、「である」の方が冷たく感じる。 このときの「である調」は法文的というか、ルールを確認している印象をさせるからかもしれません。 念押しされているように感じる。

でも変ですね。 もしそうならプライベートな場面で「である調」を使われると堅苦しく感じるはずです。 ルールを話されているような感じが湧いてくるはず。 でも「今日は寒いね」の方が「寒いですね」と言われるより親しみがある。 遠慮のなさが「である調」にあって、それが「この場では気負わなくていいよ」というメッセージになっている。 ホッとした感じが伝わってきます。

率直さと遠慮

じゃあ「率直さ」だろうか。 飾りっけなしの本心を吐露する。 そうしたときに「である調」が使われるので心情的なものを扱うときに適している。 こちらの心配事を話したとき「困ったね」と言われれば共感してもらえた手応えがあるけど「困りましたね」だと「それはあなたのことでしょ」と突っぱねられた感じがする。 「ですます」には遠慮があって、ちょっと距離を置かれたように思う。

同じ遠慮が、指示を出す場面では有効で「この方針でどうですか」と尋ねられる方が「これでどうか」と訊かれるよりいい。 「ですます」はこちらに違う意見があることを前提にしています。 異論を言ってもいい。 「である」は率直すぎて圧があります。 こちらから「お言葉ですが、それは厳しすぎます」と押し返せない。

あ、押し返すときって「ですます調」になりますね。 「お言葉ですが」です。 互いの意見の違いを取り扱う空間を作っている。 そのときは「ですます調」を使う。 率直よりは遠慮です。 パブリックな場面では「遠慮」によって、互いの意見を表に出しやすくする工夫をしている。 そのときに「である」は不適切で、相手の異論を封じるニュアンスを帯びてきつく聞こえるのかもしれません。

とすると、心情を吐露するときは自分に「率直」に、指示を出すときは相手への「遠慮」をもって、かな。 音声入力で「である調」がメインになるのも自分の考えを吐露するためで、コマンドモードで指示するとき「である調」なのは別の理由というか、iPadに異論を言わせないため。 それで胸に力みが入るのかな。

コマンドなのに「お言葉ですが」とiPadに突っかかれても困るもの。

まとめ

このブログの文章、「ですます」と「である」の混合体なんだけど、何か規則性があるんだろうか。 いつも雰囲気で変えてますけど。