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もし人生に「目標」はないとすると

Chicken eggs in reusable bag|600 Backlink | Photo by Olga Kudriavtseva on Unsplash

タスク管理を考えるとき、そのタスクに「意味」があるかどうかが重要になります。 この場合の「意味がある」は「目標の達成に貢献する」とか「益がある」ということですね。 プラスに働く。

源泉徴収票を集めておくと確定申告を出すとき益がある。 「源泉徴収票を集める」がタスクで「確定申告を出す」が目標。 行為の意味は目標との関係で決まります。

目標の根拠

じゃあ「目標」の意味はどう決まるのでしょう。 今立てている目標がいいものなのか悪いものなのか。 それをどう判断しているか。

単純に考えると「自分の人生を豊かにするかどうか」が目標の根拠になります。 人生に害を及ぼす目標を立てることはありません。 「無駄遣いして貧乏になろう」と目標を立てるにしても、それは「無駄遣い」に価値を置いているし、「貧乏」に赤貧の美学を見ている。 無駄遣いを苦痛と感じ、貧乏にも苦痛を感じるのにそうした目標を立てるとしたら「人生は苦痛を生きることだ」という人生観を肯定する目的を持っている場合です。 それもまた「人生を豊かにする」のバリエーションと言えるでしょう。

個々の「目標」の意味は「人生を豊かにする」という上位の目標に貢献している。 人生にプラスに働くとき「この目標には意味がある」と感じる。 目標には階層構造があり、その基盤は「人生」に繋がっています。

人生の意味

そして、ここからなんですけどね。 「人生の意味」ってよく聞くけど、これは何を指しているんだろうと思ったわけです。 「人生」を尺度にして「意味がある/意味がない」と判断しているのに、その尺度である「人生」を測定することは可能なんだろうか。

「あなたの人生には意味がない」と言われると凹みますよ。 ただ、よく考えようとすると、言葉の使い方が嘘くさいというか、欺瞞を感じる。 別の尺度を了解無しに持ち出されている。 そして、そうしたパターンが世の中意外と蔓延っている印象がします。

単純なパターンを考えてみましょう。 「自分の人生」以外に尺度があるとしたら、それは「他者の人生」ということになる。 「他者」は人間とは限りません。 たとえば、生まれるときに神様から何らかの「使命」を与えられていて、その「使命」を遂行することが「人生の意味」だとします。 「他者」が「神様」の場合ですね。 「神様の人生を豊かにすることが私の人生の目標である」。 そういう思考実験をしてみる。

この場合の問題は無限遡及が起こることです。 「意味」が「他者」を尺度にするものだと仮定すると、その「他者の意味」を測る別の尺度が必要になる。 Aの意味はBを根拠にし、Bの意味はCを根拠にし、...と延々と根拠探しを行うことになる。 どこまで行っても終わりがない。 これは「他者を尺度にする」に伴う不都合です。

では、循環根拠なら丸く収まるでしょうか。 その「神様」を「いい神様」と考えているのは「あなた」です。 だから「神様」の根拠は「あなた」になります。 それ以外に「本当にいい神様かどうか」の保証はない。

でも「私がそう実感しているのだ」と言っても、それは「あなた」に都合がいいからでしょう。 「あなた」の根拠がその「神様」で、その「神様」の根拠は「あなた」。 循環していて、どこにも着地していません。 つまり、無根拠です。 これもまずい。

尊厳死

この「他者」を「社会」としても「国」としても、同じ矛盾が起こります。 「社会に貢献できなければ無意味だ」みたいな話ですね。 最近「自殺」に関する本を続けて読んでいて、そこに出てくる「尊厳死」の扱いに躓いています。

どこか優生思想くさい。 「人生の意味」の尺度を「社会の都合」にすり替えている。 誰かの死を望む社会が「いい社会」なわけないですが、それを個人の問題にミスリードしている。 「働けなくなったら生きる価値がない」とか「認知症になったら他人に迷惑をかける」みたいな価値観を内在化し、本人が「尊厳死」を望むように仕向けているのは誰だろう。 そうした疑問が生じます。

なので自殺は「自殺」ですね。 それを「自死」と言い換え、ぼかしてはいけない。 やっぱり社会に殺されたんじゃないか。 その点を明瞭に意識しないと、自殺の防止には繋がらないでしょう。 いつかは我が身なので、用心に越したことはない。

エンテレケイア

意味づけを「他者」に置くと無根拠になる。 それはいいとして「自分」に根拠を置いてうまくいくかどうか。 やっぱり「自分」も無根拠であることに変わりはないし。

それと「人生を豊かにする」が究極の目標で、それ以上を考えても意味がないとしても、しれっと「他者」が入り込んでいるんですよね。 「豊かさ」という「他者」です。 何が豊かで、何が豊かでないか。 そこに「尺度」が割り込んでいますし、たぶんこれは他者由来なんですよ。 生まれながらビルトインされているプログラムとは思えない。

海外旅行をしていろいろな経験を積むことを「豊か」と思う人もいれば、ふと閃いたアイデアを形にして本を書いたり絵に仕上げたりすることを「豊か」と感じる人もいます。 なぜ「人それぞれ」なんでしょうね。 ここに疑念が浮かんできます。

それは、それを「豊か」と認知するように他の人から調教されたんじゃないか。 子どもの頃、プロ選手になりそこねた親の野望を叶えるためにスポーツ少年団に通わされたとか、バレエ教室で練習したとか。 それがもとになって「野球が好き」で人生を野球に捧げた人の場合、それは「豊か」なのだろうか。 人生を棒に振っただけじゃないか。

これは難しいところなんだよなあ。 なんか一概に言えない。 本人も楽しんでいるならいいじゃないか、という気もする。

いま検討しているのはアリストテレスの「エンテレケイア」という概念なんですが「最終目標はそれ自体が目標で、他の目標の手段にはならない」という「幸せ」の定義に関わることです。 彼が「それが幸せかどうかは、やってみれば自然とわかる」といっているとおり、本人が「幸せ」を感じているなら、横から「そんなはずがない」と詰め寄るのも変な話です。 きっかけはどうであれ「そうなってるならそれでいいじゃないか」と認めてしまう。 その方が現実的かもしれません。

人の不幸は蜜の味

とはいえ「他人の嫌がることがしたい」という「幸せ」はどうしたものかなあ。 「人の不幸の噂話が好き」とか、やめてね、と思うけど、いっぱいいそうだし。 そこをどう考えるか。 「それでいいじゃないか」では済まないし。

そもそも、その人も「幸せ」じゃないからそんなことするんだろう。 「幸せ」だったら、人の苦しむ話に喜びを感じるかなあ。 「他者」を道具にしてるからね。 「他者」を利用しながら自分の快楽を引き出している。 そこが変だもの。 自己完結していない。

「幸せ」は「自分」を活用しながら「自分」を目的にしている状態。 エンテレケイアに照らし合せると「他者の道具化」はあまりオススメできません。 周囲に「不幸」がないと手詰まりになる「幸せ」って、互いが「幸せ」を達成しようとすると成立しなくなる。 それを継続するのは無理でしょう。 指摘するとしたらそこあたりかな。

まとめ

というわけで「人生」に「目標」はない。 「人生」から「意味」が生まれ、それが「目標」となるわけです。 「人生」が「意味」や「目標」の卵になっている。