Jazzと読書の日々

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アリストテレスはパワハラだろうか

「パワーは力」という前回の結論に「パワハラはどうするの?」と謎が湧いてきたので考えました。 どうする、アリストテレス

パワハラ

アレテーは「徳」と訳されてるけど「パワー」だよね、が前回でした。 でもこれ『善悪の彼岸』でニーチェが「古代ギリシアでは力のあることが善であった」の元ネタですね、あとで思ったけど。 古代ギリシアでは「強さこそが善」だったのに、キリスト教が「弱いものこそ幸いである」と言い出し、被害者づらすればなんでも許される社会にしてしまった。 そこには「逆恨み=ルサンチマン」がある、という話です。

ニーチェこそ他者を「畜群」扱いしたルサンチマン野郎じゃないの?という疑問は置いといて、パワハラの問題はどうするんでしょうね。 イジメの問題も児童虐待の問題も、突き詰めれば「パワハラ」です。 ジャニーズのセクハラもガザ地区の戦争も自民党隠蔽工作も「パワハラ」です。 有利な立場の人間が権力をかさに、不利な立場の人間に暴力を加える。 「被害者は弱いからダメなんだ」では済みません。

アリストテレスはどう答えてくれるのでしょう?

デモクラシー

アリストテレスは外国人です。 マケドニア生まれで、アテナイでは市民として扱われませんでした。 アレクサンダー大王の家庭教師だったという理由で、アテナイにリュケイオンという学校を開いた。 なのでアレクサンダーの死後、アリストテレスアテナイから追放されてしまいます。 どこか政治オンチです。

そんな立場なので、アカデメイアでは学頭になれず、奥さんも奴隷出身の女性で、学校と言っても建物を建てることもできず、森を歩きながら講義を行いました。 彼の政治論は微妙です。 アテナイの「民主主義」にアンビヴァレントな思いを抱いていた。

デモクラシーは「部族(デモス)による支配」という意味で、親戚(部族)が多いと有利になる政治形態だった。 外国人の目からすると、数で愚策を推し進めるシステムなわけです。 どこぞの派閥政治と変わりません。 自分たちの部族の利益を優先する。

アリストテレスの「パワー」はそこにはありません。

イソノミア

哲学の起源 (岩波現代文庫)

柄谷 行人 (著) 形式: Kindle

アリストテレスは幼少期、小アジアにある植民地で暮らしています。 そこでは「イソノミア」という政治形態が取られていました。 新しい街なので誰もが新参者であり、家柄もありません。 自分たちの暮らしについて自分たちで話し合いルールを決めていく。 そこには外国人も女性も分け隔てなく参加できる。 アリストテレスの政治論は「自足」を重視しますが、このイソノミアがモデルになっているのでしょう。

ニコマコス倫理学で「幸せ」は「自分の可能性を具現化すること」と定義されています。 やりたいことに向けて努力し、それを現実のものとしていく。 人にはそうした権利があり自由がある。 「生きるとは幸せに向かっていくことであり、幸せに向けて生きること自体が幸せである」という再帰関数みたいな人生観が描かれています。

でも一人一人がバラバラに活動しても自己実現は難しい。 人には互いの自己実現をサポートし合う能力がある。 その能力を発揮しやすいようにするのが共同体の目的である。 「社会は個人のためにある」。 彼の政治論を要約するとそんな感じでしょうか。

アレテー

サポートし合う能力。 これが「アレテー」ですね。 ここまで書いて気づきました。

アリストテレスが挙げるアレテーには「正義・節制・勇気・知恵」の四つがあります。 この四つは個人というより、理想的な社会を形成する必要条件を指している。 そう読むところですね。 たしかに、これがないと「万人の万人による闘争」に陥ってしまう。

「正義」は比率の問題として語られます。 「A:B=C:D」みたいな図式を多用する。 原著を読んでいて、よくわからない議論の一つです。 たぶん「正義」という言葉が悪いのでしょう。 「正しい/間違っている」の判断をどうするか。 それは論理学の「真か/偽か」とは異なっている。 社会的に何が「不正」とされるかが問題となります。

自己実現をサポートし合う社会」を念頭に置けば「不正」は明確です。 「自己実現を妨害する行為」が「不正」。 この段階でパワハラは「不正」になりますね。 アリストテレスの考えには「自分の自己実現」も含まれていて「自殺」も「不正」に数えています。 自暴自棄を「自己に対するパワハラやネグレクト」と捉えるとわからないでもない。

より良い仕事ができるように、本人を励ましたり、時には叱りつけたりする行為は「正義」です。 本人の生きる意欲を削ぐような行為は「不正」です。 「そんなつもりはなかった」という言い訳は通じません。 「行為」が正しいか、間違っているか。 社会のバランスを崩す行為は「正しい」とは呼べません。

「節制」は自己実現に関わる項目です。 どのレベルで満足するか。 お腹が空いたら食事をする。 それは「節制」です。 お腹いっぱいなのにさらに何か食べようとする。 それは「強欲」です。 必要以上に獲得しようとする。 それをすると「互いの自己実現をサポートし合う社会」が破綻します。 だから「節制」がアレテーとして重視されている。

自己実現を無理に我慢することは「抑制」と呼ばれ、アリストテレスはあまり望ましいことと考えていません。 難しいですね。 満足が起こる欲求と、いつまでも満足に至らない欲求とがある。 後者は、本来は別の欲求であるものを勘違いしているのだろうなあ。 賄賂をもらうことが自己肯定感になると勘違いしてると、いくら賄賂をもらってもすぐ不満が湧いてくる。 「強欲」は自分の欲求がどこにあるか見えてないのでしょう。

「勇気」は明確ですね。 望ましい社会に向かっていないとき「否」を突きつけることです。 社会形成の土台にある。 不正や強欲に対し断固拒否する。 そうした行為が「勇気」と呼ばれます。 勝ち馬の尻馬に乗るのは「勇気」ではありません。 臆病です。 少数派の肩を持つ。 自分の不利を引き受けてでも「正義」を貫くことが「勇気」です。

アレテーは「身につくと心地よいもの」とされています。 自転車に乗れるようになったりピアノを弾けるようになるのと似ています。 できるようになると気持ちいい能力。

まとめ

望ましい社会を実現するには「アレテー」が必要。 そうした意味での「パワー」です。 パワハラとは正反対。 ニーチェの「力への意志」もアレテーのことでしょう。

でも「正義」や「節制」といっても難しい。 アレテーは状況に応じて変わるし、一般論では語れない。 具体的な行動として、その場その場で望ましさは変化します。

なので「知恵」が要になります。 「知識」と違い「知恵」に正解はありません。 個々人が考えなければいけない。 それが「哲学」というわけです。