Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

イメージできないものは実現できない

フリーレン第21話でリヒターが呟く台詞だが、これはどうだろう。 「イメージできないものは魔法では実現できない」。

いやいや、魔法に限らないじゃないですか。 イメージできないものは実現できない。 魔法が使えない我々の行動もイメージに支えられています。

イメージ願望

ハエを追っ払おうと手を振ったら、うっかりコップを倒してしまった。 こんな場合「そんなつもりはなかった」と言いますよね。 自分で意図して行ったのではない、と。

「つもり」や「意図」はあらかじめ行為をイメージしています。 「コップを倒そう」と思ってコップを手で払う。 その場合は「わざとやった」と言われるし、自分でも「そうだ」と認める。 自分の意志が関与しています。

すると「意図」や「意志」はイメージの有無で区別されるのでしょうか。 行動をイメージして、それを実行に移すと「意志的行動」となるのかどうか。 そうとも言えるし、そうでないとも言える。

たとえば夜寝る前「明日寝坊したら仕事に遅れてしまう」と思って寝て、次の朝もし寝坊したら、それは「意志」になるだろうか。 イメージが実現したのだから、それはあなたの願望だろう、と。 いやいや「寝坊しないように」と願ったのだから、寝坊は意志に反します。 睡眠は意識でコントロールできるものではない。 だって、意識がないのが睡眠なんだから。 「そんなつもりじゃなかった」と説明するでしょう。

でも、これも「意志」じゃないかと思います。 試しに「明日6時に目を覚まそう」と、自分が布団から起き上がるイメージを思い浮かべて寝ると、不思議なことに6時に目が覚めます。 目覚まし時計が鳴る前に目が覚める。 自己暗示の効果がある。

じゃあ「寝坊しないでおこう」になぜ効果がないか。 いえ、実はそれも効果だった。 これも自己暗示として説明できます。 なぜならイメージは「寝坊してしまった状況」を思い浮かべているからです。

電車に駆け込み、会社に着いた時には始業時間を過ぎている。 上司には怒られるし、同僚には笑われる。 ああ、嫌だ。そんなふうになりたくない。 一度そんな「遅刻」をイメージし、それを「嫌だ嫌だ」と思う。 そんな思考プロセスを経ています。

それは「否定」ではありません。 イメージに否定文はなく、頭で否定しても、身体が受け取っているのは「遅刻」のイメージです。 「笑われたくない」と願ったときには「笑われている場面」を思い浮かべている。

そのイメージが現実に起こる。 つまり、実現するわけです。

できない理由

何かしなければいけないことを「いま時間がないから」とか「お金がないから」と言い訳することがあります。 やりたいけれど諸事情があって許されない。 申し訳ない。 本当はそうしたいんだけどね。

部屋に読みかけの本が高く積んであって雑然としている。 ゴミ屋敷の一歩手前の状態。 片付ければいいけどそれができない。 「時間が取れなくて」とか「オレ、注意欠陥障害だから」と言い訳して暮らしてますが、よくよく考えてみるとどうもそうじゃない。

これは「部屋が片付いているところ」をイメージできないんじゃないだろうか。 本やガジェット類が部屋から消え、スッキリした状態を思い浮かべようとして、どうもイメージが湧かない。 頭が真っ白になります。 「できない」は「イメージできない」だと。

試しに「もしそうでなかったら」を頑張ってイメージしてみる。 大きな風が湧き起こり全てを吹き飛ばしてしまう。 部屋から小物が取り払われ、畳が目視できる状態。

なんとか想像してみると、どうも「自分の部屋」じゃない気がしてくる。 落ち着かないというか、嘘くさいというか。 イメージしてわかるのは、自分はそれを望んでいないということ。 望んだ形の「片付いた部屋」をイメージできない。 すると「できない理由」の言い訳をしてしまう。 そうした機序があるんじゃないだろうか。

意志という場

でもイメージしたとして、それは自分の意志なんだろうか。

カッとなって「殴ってやる」とイメージしても、それを思いとどまることもできます。 プロシュート兄貴と違って「思ったときにはすでに行動は完了しているものだ」というほど短気ではない。 イメージと行動の間には隙間がある。 湧いてきたイメージ通りに身体が動くわけではありません。 ストップをかけることもできる。

するとイメージは自然と湧いてきて、意志はそのイメージを吟味し、実行するかどうか判断するのだろうか。

文章の場合わかりやすいですよね。 自分が書いた文章を読み直して「他の人から『エビデンスは?』と訊かれて困るから、この部分は削除しておこう」と推敲する。 その推敲機能が「意志」であると考えるわけです。 もうちょっとマイルドな表現にした方がいいかな、とか、ちょっとここは言い切ってキャッチーにしておこう、とか。

でもそれもまた「湧いてきたイメージ」ではないだろうか。 イメージに対し別のイメージが湧いてきて葛藤している。 「これを読んだ人はどう思うだろう」というイメージ。 なので意志自体はイメージではない。 けれど、葛藤には「意志」が介在する。 すると、イメージの葛藤する場を「意志」と呼べば辻褄が合うかな。

「意志が強い人」は一つのことを貫く確固たる信念があるように思われているじゃないですか。 でもそれは単に「浮かぶイメージが少ない」だけで、むしろ一つのイメージに囚われた状態かもしれません。 別のイメージは湧かないし、湧いたとしても無視してしまう。 視点の移動が少なく、別の立場に立つことができない。

「意志が強い」は一貫性よりも葛藤耐性ではないか。 複数の矛盾するイメージを抱えながら、それを投げ出さない。 粘り強く、それらのイメージを調和させようとする。

まとめ

そもそも「イメージが湧いてくる」が何なのかわからなくなりました。 気づいたときにはイメージしている。 自分でコントロールできそうにない。 でも、イメージに振り回されたりもしない。 そうした「強さ」もある。

でもどうすればそうなるんだろう? ああ、イメージできない。

追記

フランメ師匠の「だってさ先生、平和な時代を生きる自分が想像できないだろ」とゼーリエに言うのも「イメージできないものは実現できない」の変奏だったんだな。

あとから気づきました