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『仏教入門』を読む

南直哉禅師の仏教観がたぶん原始仏教に近い。 なぜそう思うのか、昔から不思議でした。 というのも凡人の「私」に真偽を判定できる訳がないのですから。

でも「ホンモノ」の感触に嘘はありません。 自分が及ばないことであっても「ホンモノ」を感じることがある。 この本はそういう本です。

仏教入門

初期の仏典を読み直すことで釈迦の「悟り」を捉えようとする試み。

釈迦自身は「悟り」の解説をしていません。 なので後世の修行者が「私は悟った」と言っても、それが本当かどうか判定しようがない。 その根本が曖昧なまま綿々と続いてきたのが今の仏教です。

というか、後世になると釈迦を超人扱いするので嘘っぽくなります。 額からビームが出たりする。 でもビームを出すことが仏教の目的ではないはずです。 釈迦の時代の弟子たちは、説法を聞いただけで「悟り」を開いているから、そんな難しい話ではない。 誰でも理解できるし実践もできる。 そうした哲学が根底にあるはずです。

無明

初期の釈迦が説いたのは「四諦観」と「十二支縁起」ですから、これを調べればいい。 単純化すれば「無明があるから苦しみが起こる」という人生観です。 「無明」を消せば全ての苦しみが生じなくなる。 この「無明」がわかれば基本を掴むことができます。

「無明」によって「行」が生じ、「行」によって「識」が生じる。 「行」とは志向性のことです。 現象学で言えば「ノエマ」のこと。 「識」は識別作用のことなので「ノエマによって認識が生まれる」というのが後半の内容です。 すると前半の「ノエマを生み出す無明」とは何か。 それが十二支縁起のポイントですね。

南禅師は「無明」を「言語作用」と見ています。 言葉の働きによって物事が実体として扱われてしまうこと。 それが「無明」です。 「無明は言語でできている」。 まるで精神分析みたいな話です。

さて、この仮説で釈迦の言動を説明することができるか。 とくに「悟り」の前後を説明できるだろうか。 その証明をこの本の中でいろいろな角度から行っています。

「私」について

インドのそれまでの哲学「ウパニシャッド」では「梵我一如」が重視されていました。 「宇宙原理と個人原理は一致する」という考え方ですね。

「海と波の関係」に例えるとわかりやすいです。 個々の波は生まれたり消えたりするけれど、海全体を見れば増えたり減ったりはしていない。 同じように個々の生命体には生き死にがあるけれど、生命自体は永遠である。 それが「梵我一如」です。

「本当の私」は「生命」の方だから不死だと感得すること。 それが古いタイプの「悟り」でした。 今の仏教にも「悉有仏性」みたいな形で紛れ込んでいる。

ただ釈迦はその修行もするけど「これじゃない」と捨ててしまうのです。 何がまずかったか。 「何かが永遠にある」という発想に偽りを感じた。 とくに「私というものがある」という前提を問題視した。 デカルトと反対ですね。

「私」は他者との関係において生起する。 「私」という言葉によって「変わらぬ私」があるかのように錯覚する。 昨日の「私」と今日の「私」が同一なのは、他者が「同一の人」として扱うからです。 自分自身もそう扱う。 そのことで「私」が相続されている。 それは社会で生きる上で必要なことです。

ただ、それはルールであって「真実」ではありません。 「無我」と言うけれど、坐禅を組んで「無」になることではありません。 もともと「私」などなかったと気づくこと。 「梵=宇宙原理」が「私」なわけでもない。 ただ「私はない」。それだけです。

問題点

問題は「それでどう生きていくのか」ですね。 苦しみは「私は変わらない」という思い込みから生まれる。 生老病死、いずれも「変わらぬ私」への固執です。 変化していくことを「不幸だ」と感じている。

でも老いたなら「老いた私」を生きるしかないし、病気になったら「病んでいる私」を生きるしかない。 そのとき体験していることが「私」です。 そこにいること、Daseinが人間の現実です。 仏教は三大ニート哲学の一角をなしている。

これが幸せなのだろうか。 そこがわかりません。 釈迦は「所有」を警戒してますね。 モノを生産したり家族を持つことを弟子たちに禁じています。 労働や家族によって「私のもの」が生まれるのを警戒したのでしょう。 「私のもの」が増えたり減ったりすると一喜一憂してしまう。 それは浅いし、他者をモノ扱いするリスクがある。

でも一喜一憂するのが生きる楽しみじゃないだろうか。 そこを「苦しみ」として回避する思想は、根源に「恐れ」を抱えたままになる。 「恐れる私」を消せていない。

「私」を実体視しないまま「私」というゲームを楽しむ方法もありそうだけど。

まとめ

お釈迦さん自身は人生を楽しんでそうだけど、後世に要らぬ迷惑を残したんじゃないだろうか。 「悟り」が実体化してしまい、変な修行ばかり増殖してしたかもしれない。

追記

労働と家族の禁止はあれかもなあ。 「アパレル系の会社で総務部の部長をしてます」とか「ケースケくんのお母さん」とか、肩書きが「自分」になってしまう。 というか、そうした他人から与えられた肩書き以外に自分を表現する方法がない。 自己規定の二大要因が労働と家族なのかもしれません。

その二つがない場に自らを置くと「自己」がほどけ始める。 だから「ほとけ」。

でもインターネットこそ、そうした肩書きの消える空間なのに、あまりほどけているように感じないのはなぜだろう?