Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ブログは宛名のない手紙である

a pen sitting on top of a piece of paper|600 Backlink | Photo by Towfiqu barbhuiya on Unsplash

手紙、それは letter。 文字、文学、知識、学問。 多彩な意味を持つ言葉。

ノートではない

研修会に参加して、そこでの講義の内容を書く。 これは「ノート」であって「手紙」ではありません。 何が違うのでしょう?

ノートは備忘録です。 忘れるために書きます。 いま聞いたことを忘れ、メモリーに空きを作る。 そうでないと知識に圧倒され、頭の中がすぐパンパンになってしまう。 補助記憶装置にすることで、メインメモリーに余裕を持たせるのが「ノート」です。

「手紙」はそうではない。 旅に出た若者が、田舎に残した家族に向け「自分の無事」を伝えるために書きます。 大海原の潮風や、都会の喧騒、市場に溢れる野菜。 書くのは「体験」です。 この体験を読み手に追体験してもらおうと願っている。

日記ではない

体験を書くという意味では「日記」も同じです。 ただ「日記」は自分が見返すためのもの。 後になってから「ああ、こんなこともあったなあ」と懐かしむ。 「未来の自分」が読者になっています。 それがどんな自分なのかはわからない。

「手紙」の読者は「知っている誰か」。 その人のことを思い浮かべながら、自分の体験を綴っていく。 「この体験を共有したい」という願いがこもっています。 「あなたがここにいてくれたら、どんなに嬉しいだろう」。 手紙にはそんなメッセージがある。 「日記」にはそれがありません。 「未来の自分」を招き寄せたりしない。

ニュースではない

「ニュース」ももともとは「手紙」です。 「いい便りと悪い便りがある。どちらから聞きたい?」の「便り」が英語では news。 「新しいこと」が原義。 情報のあるところから情報のないところに流れるもの。 それが「ニュース」です。

ただ「ニュース」は新聞やラジオというメディアになることで「国民国家」を形成するツールに変質します。 ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で指摘したように「民意」を作り上げる。 いわゆる「世間」ですね。 「みんなはこう考えている」と書くことで「みんな」というものが忍び込んでくる。 「人の目」とは、こうして生み出された「視線」のことです。

「手紙」は「民意」を作りません。 追体験できるように書くけれど、共感は要求しない。 自分の「体験」を書くから「今の私はこう思う」と締め、日付と名前を書き入れます。 「手紙」は「世間」に流されず「個人」を生み出すツールになっています。

ブログではない

ブログは「ノート」であっても構いません。 「日記」でもいいし「ニュース」でもいい。 実のところ、内容は「手紙」でなくても構わない。

ところがブログとして載せた途端「手紙」の性質を帯びます。 これが不思議ですね。 体験を書くこと。 読者を持つこと。 個人が生まれること。 「手紙」の三要素がブログにも備わっています。 なぜこんな変容が起こるのでしょう?

これは「誰が・誰に・何を」の部分ですね。 主格・与格・目的格。 この三つが「手紙」と共通してくる。 そのため手紙性がブログに付与される。

すると、書くことを通して「考える」が「想う」に変わる。 ひとりで考えると堂々巡りになります。 地に足がついていない。 でも「誰か」に向けて書くと自分でも追体験が生まれる。 イメージの中で再度「体験」の生き直しが行われる。 プラグインの使い方を説明するだけでも「追体験」をします。 身体との繋がりを回復し「私」になる。

まとめ

自分の身体と繋がるとき、その身体性を通して他者に「それ」が伝染する。 たぶんそれが「コミュニケーション」の元の形。