Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

デジタルノートに「完成」はない

Colorful jazz concert / www.jensth.com|600 Backlink | Photo by Jens Thekkeveettil on Unsplash

昔の先生には「脱線」があった。 小学校の頃はもう記憶にないが、中学校にも高校にも「脱線」がうまい先生が学年に一人はいた。

脱線

授業の途中で、授業とは関係ない話が始まる。

「実は飼っている亀に元気がないんですよ」。 病院に連れて行ったら、獣医に「哺乳類しかわからない」と言われたり、図書館で爬虫類の生態について調べたら恐竜の本を読んでしまったり。 病気の亀といえば道元和尚もそんなことを書いていて、え?道元さんを知らない?道元さんというのは…、と日本史になだれ込んでいく。

1時間で教科書は1ページも進まない。

でも、これが授業だったなあ、と思います。 「考えるとはどういうことか」の実演。 それは身近な出来事の中にあって、そこから生物学や人類史に展開していく。 学問に門はない。 東西南北、どこからでも入っていける。 何も道具はなくても、金がなくても、誰にでもできる。 その「考えること」の授業が脱線の中にありました。

即興性

大学もそうでしたね。 指導教官のところに卒論の相談に行っても「マイケル・ジャクソンのスリラーは狼男となぜ混ざってるの?」とか「ゾンビ映画アメリカの何を表しているんだろうね?」と脱線が始まり、美味しいお菓子をご馳走になりながら、いろんな分野に素早く目配せしていく。 脱線のうまい先生でした。

講義も素晴らしかった。 「最近こんな本を読んでて」とまずテーマの提示があり、そのテーマを展開しながら、途中からアドリブパートに突入し、授業が終わる直前にテーマへ回帰する。 知識としては「展開」のところにちょっとありますけど、まあ、覚えなきゃいけないことは各自が勉強して覚えなさい。 講義で見せるのはそこじゃないですよ。 アドリブパートが大事です。 そんな感じで。

唐突な疑問がひらめき「もしそれが成立するとすると」や「もし成立しないとすると」の仮想空間に引き込まれ、モデルを考え検証し、その講義のうちに棄却してしまう。 作るも壊すも自由自在。 そのプロセスを学生たちも追体験する。

それが大学でのトレーニングでした。

パワポの時代

最近そうした講義を見かけなくなりましたね。 学会に顔を出しても、どの会場でもパワポが表示されている。 表示されているスライドを読み上げている。 あれって、話す方も聴く方も、そもそも面白いのかなあ。

そこに「脱線」はありません。 ただの完成品しかない。 話す方は既得領域から踏み出さない。 専門分野から一ミリも出ない。 聴く方も思考が刺激されることがありません。

アナログノートは書き下し文です。 いつの間にか締め切りがやってきて時間に追い立てながら書く。 とにかく原稿のマス目を埋める。 指定された文字数を書く。

「脱線」の伸縮が書き下すための基本技法です。 書き下して、赤を入れ、清書をする。 長さが足りなければ、枕をつけたり、脱線したりする。 程よいところで「閑話休題」とテーマに戻る。 長すぎたら「それはこれからの課題として今は筆を置くことにしよう」と締める。 清書すれば、それ以上こちらにできることはありません。

デジタルノートには「清書」がない。 切り貼りが簡単にできる。 堀を埋めてから本丸を攻めるようなアウトラインも作れます。 だから、うっかりすると「パワポ」になってしまう。 アナログのつもりで文章を書いていくと「脱線」が消えてしまう。 それはもったいないことです。 ウナギの肝を捨てるようなもの。

グルーヴ

だから、次世代のデジタルノートを考えると「脱線をどう活かすか」だろうと思います。 楽譜に沿って演奏するのではなく、コード進行だけ決めて、自らの即興性に賭けてみる。 そうした書き方を可能にするようなツール。

もちろん、ジャズを考えています。 マイルス・デイヴィスのモード奏法。 それぞれのプレーヤーが即興に取り組んでいると、そこにグルーヴが起こり、ひとかたまりの音のうねりが生まれてくる。 ライブならではの一期一会。 その場にいなければ味わえない、再現不能の時空性。

ブログにはその可能性があります。 どの時点でも完成品ではない。 同じテーマを、いろいろな角度から書き換えていい。 それは「出版物=書かれたもの」にない特権だと思う。 読んでいる人を「考える」に巻き込むような脱線を散りばめる。

ブログじゃなくてもそうかな。 デジタルであれば、即興の組み込みがしやすい。 Twitterにもあるんじゃないかな。 グルーヴを引き起こしたいのです。

まとめ

今のツールは、まだ「紙のメタファー」に囚われています。 紙の時代が長かったのだから仕方ありません。

まあ、漢字の書けない世代がメインになってからでしょうね。 字は書けないけれど、考える力はみなぎっている。 その人たちがどんなツールを欲するようになるか。

そのとき出てくるのは、即興性を支えるツールだと思います。 完成品なら生成AIが作ってくれる。 表現したい人は「完成」のないところへ向かうんじゃないかな。