Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

タイパとは違う時間を探して

Analog timepiece|600 Backlink | Photo by Djim Loic on Unsplash

脳がハードウェアだとすると、心はソフトウェアですよね。 脳をいくら研究したところでソフトウェアの解析はできない。 ソフトウェアの研究にはソフトウェアのモデルが必要になります。

シンプルに

単純に考えると、心には体験レベルと認知レベルがあります。 体験レベルは身体的で直感的、環境と共鳴しながら一瞬で把握し行動する。 認知レベルはその体験を言語により再構成して成立するもの。 言葉はリニアな構造をしているので、問題を絞ったり目標を立てたりして行動を制御している。

体験レベルと認知レベルの二つのソフトウェアがあることになります。 それぞれ体験主体と認知主体と考えることにしましょう。 「頭ではわかっちゃいるが身体がついてこない」というズレのことです。 頭が認知主体、身体が体験主体を指している。

赤ん坊が持っているのは体験主体です。 感覚と運動のループを用いながら環境との交互作用をおこなう。 一つの環世界を作り上げる。 生命体としての基本形です。

そこに他者から言語が輸入される。 環境の個々の要素が名付けられ、その認知を他者と共有します。 こうして作り上げられるのが「意識」であり認知主体です。

体験主体の有り様を他者目線で捉えなおす行為が「意識」。 そう考えると「私」と思っている意識は他者でできている。 他者を内在化することで認知主体が形成される。

リズム的展開

しかも、この体験主体と認知主体の交互作用も意識できます。 人間のすごいところ。 メタ認知になるのかな。 自分の体験をどう認知しているかも「体験」として扱える。

その体験を認知することで認知主体が刷新されます。 メタ認知が認知されて、さらにメタ認知を作る。 刻々と認知主体が変化します。

この「刻々と変化するもの」が「心」と呼ばれているらしい。 「コロコロ動き回るからココロ」の俗説は一面の真理を突いている。

個人的には「『ここ』としか言えないもの」という定義が好きですけどね。 「ここってどこ?」と聞かれて、頭や胸を指したら、もう間違いです。 場所ではありません。 場所の定位に先行して成立する「何か」だからです。

それがあるから、人は場所を示すことができる。 「こころ」がなければ「ここ/そこ」の区別もないでしょ。 「ここ」がコロコロ転がって「こころ」というわけです。

書くこと

さて「書くこと」のテーマに戻ります。

文章を書くことは、体験レベルを認知レベルで捉えることです。 体験レベルは当事者目線、認知レベルは読者目線と言い換えてもいい。 体験から生まれる言葉と、それを「読み解こう」とする言葉が交差する。 それが「書くこと」の現場です。

それはそのまま「こころ」の軌跡なので、変化します。 「ここ」が変わり続ける。 枠に区切られたりしない。 「ここ」が動き続けることで時間を生み出します。

「書くこと」は書き始めから変化を被っている。 時間的存在です。 それを空間的な表象で描くことはできません。 ソフトウェアを場所的な構造として示せば嘘が入ります。 フローチャートやシーケンス図のように描くとしても、 そこには時間が介在する。

楽譜と同じで、作品を一瞬で提示することはできません。 リズムに合わせて展開的に表現する。 動かしながら、そのソフトウェアが何をするものか掴んでもらうしかない。

その事情は「書かれたもの」全般に共通すると思います。

タイパ

「倍速視聴」のことを考えています。 タイパという発想のどこに無理があるかですね。 時間を空間的に扱っているかな、と。 心を脳に場所づけるのと同じ匂いがする。

タイパ自体は「時は金なり」の延長だろうと思います。 資本主義によって「時給」という概念が導入されて出てきた。 時間が量的存在であるという幻想に支えられています。 それ以前の時代には意味がなさない幻想でしょう。

現代では仕方ないけれど、でも時間の積み重ねが「人生」じゃないですか。 単調な時間感覚だけではさみしい。 他の時間感覚を育てる手立てもほしい。

そこに「書くこと」が使えるんじゃないかなと思います。 「ここ」の変化するリズムに身を任せること。 それは倍速にしようがないもの。

まとめ

でも生成AIが「書くこと」もタイパに変えてしまう?

これからの変化を見てみないとわかりませんね。 「生体データをもとにあなたの代わりに日記を書きます」。 そんなアプリが出てくるんだろうなあ。