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ドキュメントを書くエディタってなんだろう

Fountain pen on a journal|600 Backlink | Photo by Aaron Burden on Unsplash

前回「Obsidianはドキュメントを書くエディタではないか」と書いたので、 再び「ドキュメントとプログラムの違い」を考え直すことになりました。 ああ、難しいなあ。 どう違うんでしょうね?

何かいい補助線はないか、と頭を捻ったところ思いつきました。 心理学者のスキナーの「言語行動」って考え方。 これを手始めに連想することを書いてみます。

タクトとマンド

スキナーの心理学―応用行動分析学(ABA)の誕生
ウィリアム・T. オドノヒュー 他2名

スキナーによると言葉は「タクト」と「マンド」の2種類に分類されます。 言葉を意味とかではなく機能に注目する理論。 細かく言うと「エコー」とか「コピー」とか他にもあるけど、大きく分けると「タクトとマンド」の二つになります。

タクトは体験の共有です。 「昨日の雨はすごかったね」「ずぶ濡れになりました」みたいな会話を指します。 コンタクト(接触)から作られた造語です。 人と人との間で情報を交換して、それを共有する行為。 これを「タクト」と呼びます。

それに対し、マンドは行動の要請です。 「ゴミ捨ててきて」「いま忙しいからちょっと待って」みたいな会話です。 コマンド(命令)を短縮した、これも造語です。 「ああして、こうして」と人に行動を要求する話法。 それが「マンド」。

同じ発話でも文脈によってタクトになったりマンドになったりする。 子どもが「トイレ!」と叫んだとき、面白い形のトイレを見つけて感動したのなら「タクト」。 急にトイレに行きたくなったのなら「マンド」になります。

これを元にして考えてみると「プログラムを書く」はマンド中心と言えそうです。 コンピュータに対し指示を出すわけだから、どのスクリプトも行動を要請している。 いや、そうとも限らないか。 コメントに「何月何日に修正しました」と書けば「タクト」ですね。 情報の共有。 人が宛先のときもある。 けど、大部分はコンピュータが宛先に想定されているから、まあ、マンド中心。

それに対し「ドキュメントを書く」は日常会話に近い。 「タクト」の側面も入っているし「マンド」も入っている。 どちらか中心というわけではありません。 やはり宛先が「人という他者」になっているからでしょう。 その人を動かしたいときもあれば、ただ話を聞いてほしいときもある。

ああ、「話を聞いてほしい」は「マンド」なのだろうか。 「タクト」であっても、メタ的には行動を要請しているのかもしれない。 うーん、どうなんだろう?

日記はどうなるんだろう

宛先が鍵かな。 宛先のないドキュメントというのは存在するのだろうか。 もしあるなら、それは「マンドを含まないタクト」になりそうです。 タンスの角に小指をぶつけたときかな。 「痛い!」と叫ぶ。 そばに誰もいなくても。 この発話には宛先がないと言える。 「咳をしてもひとり」の状況です。

そう考えると、純粋なドキュメントとは「日記」ですね。 誰にも見せないつもりで書く日記。 隠し日記。 「書く」と「隠す」は語源的に親戚なのだろうか。 いや、それは今はどうでもいいか。 私的言語はあるか、とも言えそうだけど関係ないか。

そうした日記に「体験の共有」という側面はあるでしょうか。 ああ、ありますね。 あるわ、「体験した自分」と「日記を書く自分」との間で共有がある。 自分が二重化して体験を共有している。 なので日記は「タクト」の領域にあります。 「ダイエットを頑張ろう」なんて書いてしまうと「マンド」かもしれない。 でも「そのときはそう思った」なら「タクト」の側面が強い。 「この頃は栄養学に凝ってたものなあ」としみじみ思い返したり。 「ドキュメント」にはタクトがたっぷり含まれてそうです。

マンド化する社会

もしかしたら、この「タクト」が薄れてつつあるのが現代社会での風潮かもしれません。 Twitterで炎上する事件が起こるとそう思います。 スキナー自身がタクトの例として「呟く」を挙げている。 「すごい!」みたいに口についてしまう言葉は他者を宛先に持ちません。 自分の中で完結している。 これが「タクト」だろう、と。

Twitterの当初の目的はこの「呟き」を記録することだった。 ところがそれが公共の場に漏れ出すとマンド化します。 命令として「誤読」される。 タクトなのだからタクトとして受け取り「そうですね」で済む話。 それが「この言葉は私に命じている」と受け取るから炎上が起こる。 「こうしろ」と言われたと思いカチンと来る。

もちろん「公共の場で言うことじゃないだろう」というのもあるけど、 「そういうのもあるよね」で済む話も多い。 なのに「なぜ決めつけるんだ」とキレる人が出てくる。 叩いていいとなると、それに便乗する人も現れる。 言葉に「命令」を読み取ってしまうからだろう。

たぶん「忖度」とか「空気を読む」とか言われ出してから、どんな言葉にも「マンド」を見るようになりました。 こうした同調圧力は日本の特徴みたいに言われるけど、本当かなあ。 古い人間からすると、とても違和感がある。 そもそも最初「忖度」が読めなかった。 今でも「たんそく」と打ってしまって漢字変換しないのでネットで調べました。 「そんたく」でしたね。 平成の途中からでしょうか。 「KY」とか言い出したの。 空気に「行動への要請」が含まれ出した。 いや、共感の強制か。 空気に変なものが混じり出し、息苦しい世の中になりました。

中動態としてのドキュメント

タクトは体験を共有することが目的です。 だから、話をすればそれで目的を達成している。 タクトはそれだけで楽しい。

反対に、マンドは相手に行動させることが目的です。 話すことは手段であり、それだけでは不完全。 目的は満たされない。 たぶん他者が指示に従っても不満が残る。

この差異は中動態と能動態の違いでしょう。 行為が自分の中で完結するか、あるいは外部を必要とするか。 行為そのものが目的であるのなら中動態でありタクトです。 踊るために踊り、歌うために歌う。 反対に、行為が手段に過ぎず目的が別にあるなら能動態になる。 能動態は何かが完成するまで満足を先延ばしにします。

この中動態が今の時代では忘れ去られようとしている。 「書くこと」は書くだけで楽しい。 自分の気持ちを歌にしてもいいし、徒然な随筆にしてもいい。 ところがそれだけだと「自己満足」と蔑まれてしまう。 商品化してお金に換算してから価値が測られる。 でもそれは本当に欲しかったものなのだろうか。 それは楽しいだろうか。

まとめ

ドキュメントを書くエディタがタクトの復権になればいいなあと思います。 書くこと自体の楽しさを再発見するツール。 プログラムは完成品ができるまで完了しないけれど、 ドキュメントはどこで終わってもいい。 今ここで終わっても満足。

Obsidianはそんなツールになれるだろうか。