Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

楽しく書くためのツールにObsidianはなれるかな

そう、プログラミングツールじゃないんだから。

ブログを書くエディタ

Obsidianはドキュメントを書くためのエディタ。 スクリプトを書くためのものじゃありません。 なのにスクリプトプラグインの話をするのもちょっと変です。 純粋にドキュメントの話をしてみましょう。

とはいえ「ドキュメント」も固いイメージですね。 お役所的な書類を思い浮かべてしまいます。 個人で日頃書く文章なのだからもっとゆるゆる。 「日記」や「ブログ」に近い。 思いついたことを書き留める「チラシの裏」。 Obsidianを「そうしたもの」と考えてみましょう。 生活に密着しているテキストとして。

プライベートなブログ

実際、文章を全部ブログに載せるわけではありません。 何か「有益そうな情報」のとき、はてなブログにアップしている。 それ以外のこともObsidianに書いています。 中途半端に終わっている文章もある。 アイデアを箇条書きにしただけのメモもある。 「個人的すぎるなあ」とブログに上げなかった記事もある。

考えてみると、こうした記事の集合体が「ブログ」です。 ネットには一部をアップするだけで、残りは「ゴミ」ではありません。 大切な「自分の思考を記録したもの」です。 アップしなかったとしても削除しない。 そのままローカルに残しています。

この非公開でプライベートなテキストの集まり。 本来の意味での「ライフログ」です。 自分の人生の航海録。 日々の生活で感じたことを振り返り書きつづる。

Obsidianは「ネットに上げないブログ」を作ります。 書いていると自然とそうなる。 そうした仕組みが組み込まれています。 タブで文章を管理する。 検索で記事を絞り込む。 この間「ブックマーク」の機能が追加されました。 いずれもWebブラウザからの転用です。 ネットをローカルに作り直している。

無駄な時間

今の社会は何かに追い立てられるように慌ただしい。 時間を前に前に進めることに重きが置かれています。 コストパフォーマンスとか、タイムパフォーマンスとか。 効率が優先されて、のんびり振り返る時間が持てません。

たぶん、少し古い時代に遡ると「無駄な時間」があったと思います。 日が暮れてから屋内が闇に包まれ、囲炉裏端に家族が集まる。 食事しながら、今日あった出来事を誰それとなく話し、 他の家族も「ふーん、そう」と関心なさそうな生返事をする。 別に情報交換でも報連相でもない、ただの無駄話。

あるいは仏壇の前に集まって正座し、 大人たちが何やら呪文めいたお経を上げる中、 「明日は運動会か。雨が降って中止になりますように」と 後ろ向きな願いを仏さんにしていた時間。 まあ、無駄な時間です。 でも、大事だったんじゃないかな。 そうした時間がなくなってから、今はそう感じます。

継続性の喪失

ライフログは「そうした時間」の一種です。 生産的ではありません。 むしろ、生産的な流れに抵抗するための時間です。 まあ、抵抗ってほど力むことでもないけれど。 ちょっとぼーっとして思い浮かんだことと対話する。 そんな時間を、生活のところどころに入れてみる。 「振り返り」は「触れ直し」。 自分の体験に触れるタクトです。

書くものはなんでもいい。 紙のスケジュール帳でもいい。 でも、数年後でも見返すことを考えるなら、 電子化しておくと便利な面が多い。

ただ最近思うんです。 Evernoteも良かったけど、 サービスの内容が「むこうの都合」で変わってしまう。 ネット上のデータにはそんな心配があります。 昔はそんなこと考えたことありませんでした。 デジタルなものは半永久的に保持されるのだと思っていた。 漠然とそんなイメージを持っていた。 でも物理的な媒体よりも、電子の方が短命です。 近年とくに、その傾向に拍車をかけてきている。 記憶喪失が甚だしい。

本当のところ、ローカルでもわかりません。 十数年前にCDRへ焼いたデータを見返すことはない。 怖いことだなあ、と思います。 「私」というモノの継続性に切れ目が入ってしまう。 過去を切り捨てることで時代が進んでいる。

まとめ

Obsidian - Connected Notes 1.4.4
分類: 仕事効率化,辞書/辞典/その他
価格: 無料 (Dynalist Inc.)

やはり、その流れに少し抵抗したい。 「書くこと」はその手段じゃないかな。