Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

読者目線の「目線」とは何か

person holding book sitting on brown surface|600 Backlink | Photo by Blaz Photo on Unsplash

眼差しを表す言葉には「視線」と「目線」があります。 これは日本だけの使い分けかもしれない。 でも、重要なことが隠されているように思います。

視線と目線の違い

この二つはどう使い分けられているでしょうか。 まず目線のほうは「上から目線」とか「彼女目線」とか、何らかの役割が入っている。 視線には「上から視線」とか「彼女視線」という言い回しはありません。 ここが大きな分岐点でしょう。

目線には具体的な他者が眼差しの持ち主として想定されています。 それに対し視線には持ち主がいない。 一人で部屋にいるときでも、ふと「誰かの視線」を感じ、あたりを見回す。 アノニマスで正体不明の眼差しが「視線」と呼ばれます。 「誰か」の視線だけれど「誰か」を特定できない。 普遍的なアニミズム

この不気味さゆえに「視線恐怖」を引き起こします。

視線の歴史

しかし「視線を感じる」とは不思議なことです。 目からビームでも出ているのでしょうか。 視線を感じるとき、実際に感じているものは何なのでしょう。

アリストテレスは「目から視線が出ている」という説を唱えました。 『心とは何か』で、感覚はまず触覚として始まり、味覚から嗅覚と発展することで、距離を置いたものも知覚できると指摘している。 視覚や聴覚もこの延長にあるので、どこかに触覚的な接触がある。 接触無しに対象の情報は伝わらない。

単に光が目にはいるだけでは何も見えず、こちらから「見よう」とすることでモノの識別ができるようになる。 それは目から「視線」が出ていて、それが物体に触れるからだろうと考えています。 日本語でも「舐め回すような視線」と言いますからね。 コウモリの放つ超音波のようにビーム照射してスキャンしている。

この奇妙な視線論は長い間忘れ去られていましたが、19世紀にブレンターノが「志向性」と名付け直し、再点検しました。 「見ようとすることで見える」という現象。 これが弟子のフッサールでは「ノエマ」と呼ばれ、サルトルの眼差し論に引き継がれています。 視覚には受動的なだけでなく、能動的な側面もある。 そしてそれは意識的行為ではない。 同じブレンターノの弟子であるフロイトが「備給」と呼んだ通りです。

なので「視線」の持ち主は主体です。 自我ではありません。 書き手がどういう視線を対象に向けていたか。 そういう問いは成立します。 批判的に論じているか、発展的な狙いがあるか。 この場合は「視線」であり「目線」は使わないでしょう。

ただヨーロッパにはもう一人の「主体」がいて、そちらの視線も問題となる。 その主体とは「神の目」です。 「Nobody knows the trouble I've seen」で歌われるように「私の苦しみは誰も知らなくても、神様だけは見てくださっている」と感じる。 見守ってくれている。 日本でも「お天道さんは知っている」ですけどね。

サルトルが「誰かの眼差しを感じ、自分自身が対象化され、石となってしまう」と論じるときも、その「眼差し」は「神」です。 でも、無神論の時代において「神」は消え、ただ「視線」だけが残った。 そこが現代哲学の他者論となっています。

目線の有り様

「目線」に主体はありません。 社会的な役割を想定している。 つまり正体がわかっていて理解可能です。 「視線」はレヴィナスのように「他者の顔」となり、死者や異邦人のような「理解不能な他者」から向けられている。 理解の外部にあるものです。 「目線」はそんなことなく「内部」で完結している。

なので「目線」は共感を強要します。 「もっとユーザ目線に立ってください」と要望できる。 「国民目線に立ってこの難局を乗り切っていきます」みたいに言える。 こうしたとき「視線」は使えません。 「視線」は自分とは異なる主体から発するビームだからです。 それは共感しようにも共感できない。 自分の想像力を超えたものと対話すること。 そこまでの覚悟は「目線」にはない。

「目線」はそのため「投影」に変わりやすい。 自分が薄々感じていることを「相手の思い」のように感じる。 葛藤がありながら抱えきれないとき、それを相手との対立のように感じ、反発したり恨んだりする。 人間関係に投影することで、自分の葛藤をマネージメントする技法。 「目線」にはそうした側面があります。

読者目線

なので、読者目線はやはり「目線」でしょう。 書き手の中にある葛藤を取り扱う。 そのために一度自らが「読者」となり「ここがわからないなあ。この点は深めると面白そう」と論評する。 意識的に行えるのが利点ですね。 他人とケンカせずに済むし。 自分が読んで楽しめるものを書くコツです。 「目線」はツールとして使える。

でも「自分の枠」を飛び出せるかは難しい。 読者目線で書くことは大切だけど、それではまだ足りないので、実際に公的な場に文章を載せるのだろうなあ。 公的な場そのものが「視線」だから。 実際に生きている主体からの「視線」が向けられることで、ただの独り言ではなくなる。 しかもいつも、その「視線」は理解不能です。

まとめ

「視線」については、生あたたかい目で見守ってください、と祈るだけ。