マウンティングを考えてて、それを支えてる気持ちは強い劣等感から来る嫉妬じゃないかな、と。 そう思って「嫉妬論」を読み直しています。
嫉妬論
「嫉妬」をテーマに、歴代の哲学者の言説を集め、そこから一定のルールみたいなものを導き出そうという試み。 「嫉妬」という感情は昔からあるし、どちらかというとネガティブなものとして扱われている。 あらゆる差別の背面に張り付いているけれど、なかなか解消するものでもなく、むしろ現代になるほど蔓延しているのではないか。
ルソーの『人間不平等起源論』がちょっと刺さりました。 自己愛と自尊心を分ける考え方。 自然状態に自尊心はない。 自分の身を守り、自分を大切にしようとする基本欲求はある。 それは自己愛であって、自尊心ではない。 自尊心は、人間が集団を作り、他者と自己を比較する中で生じる二次的な感情である。 そこから他人を貶め、自分の価値を相対的に上げようとする「不平等」が生まれてくる。
この指摘は大事ですね。 現代社会では「自己肯定感」みたいなところに価値が置かれていますが、それは自己愛なのか自尊心なのか。 その見極めができていないと「嫉妬」で互いの足を引っ張り合う環境を作ってしまいます。
イジメやパワハラと「自己肯定感」は同じカードの裏表になっている。 「人を評価する」が学校や会社の基盤になっている限り「嫉妬」がなくなることはありません。 グレーバーの「道徳羨望」という概念が面白かったです。 中間管理職が現場の労働者に抱く嫉妬の感情。 地位や給料は高くても、自分の仕事に生産的な意味を見出せないと「きちんと働いている人」を恨む。 そういうところにパワハラが生まれるのだろうな。
嫉妬の分類
ただ、読んでいると少し混乱するところがあります。 山本先生は「envy」を「嫉妬」と訳しているけれど、哲学では「envy」が「羨望」と訳されることが多く、どちらかというと「jealousy」が「嫉妬」を意味するからです。 ここは分けておきたい。
広義の「嫉妬」は両方含む概念とし、その下位概念に「羨望」と「嫉妬」は配置した方がわかりやすい。 あと「良性嫉妬」とかを議論に載せるなら、山本先生の提案通り「良性嫉妬=憧憬」と分類するのが良いでしょう。
すると下図のようになります。
「自己/他者」の軸は「自分が変わる」か「他者を変える」かです。 自分より優れた人を見たとき「あの人のようになりたい」と思えば「憧憬」や「憧れ」です。 自分もそうなろうと努力する。 そうした向上心として機能します。
それに対し「あいつは幸運に恵まれただけだ。ずるい」という感情は「羨望」です。 羨ましい。 「家柄がいいだけだ」とか「上司のお気に入りだから」とか他者軸で物事を考えている。 自分ではコントロールできない。 そこで考えるのは「不幸になればいい」という呪い。 「もてはやされた人」が没落する姿に心が躍る。 他人の不幸は蜜の味。
それが「羨望」という感情です。
欠如/喪失
もう一つの軸である「欠如/喪失」はジンメルから拝借しました。
ジンメルは「獲得/保持」とも言っています。 自分が持ってないものを他者が持っていることに対して抱く感情が「羨望」。 それに対し、自分のものを他人に奪われたという怒りが「嫉妬」に当たります。
これは途中にあったサルの実験が面白かった。 二匹のサルに課題を与え、その報酬としてキュウリを与える。 二匹ともキュウリの間は喜んでキュウリを齧ってるのですが、途中から一匹だけブドウを与えるように変えてみた。 するとキュウリのサルはがむしゃらに課題を繰り返し、それでもキュウリしかもらえないとなると、今度はキュウリを投げ捨ててしまう。 相手のサルに暴力を振るうし、実験道具もメチャクチャにする。
これが「嫉妬」です。 よくわかるわあ。 ほんと、あるある。 サル並みかぁ。
4象限の「喪失の自己軸」が「?」だったのですが、アリストテレスの「義憤」で埋めてみました。 アリストテレス自身は「義憤」を「嫉妬」とは別物と考えていますが、そう考えるのは類似性があるからでしょう。 「本来自分が得るはずのものを略奪された」という怒り。 それが、自分の権利回復に向かうなら「義憤」です。
まとめ
さて、この表からわかるのは「嫉妬を義憤に変えましょう」という教訓ではありません。 そんな簡単に変わってたまるか、と思います。
でも、長い生命の歴史において「嫉妬」が形成されたことには、何か積極的な意味があると思うんですけどね。 それが現代の「評価社会」において不適切な表出をしている。 ここをどう変えれば「嫉妬」の利点を引き出せるだろうか。
そもそも嫉妬の「利点」とは何だろう。 「もし嫉妬がなかったら」の思考実験をしてみないと「利点は何か」が見えてこないかな。