Jazzと読書の日々

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「スマートな悪」の読中感想文

なんでか「感想文を書くのは本を最後まで読み終えてから」という思い込みがあって、今まで読書メモも読み終えて書くようにしてました。 これは義務教育の弊害だな。

読書感想文は読後感想文でなくてもいい。 というか、読んでいる途中に自分の理解や問題意識を整理しておく方が、本の後半を読むとき明晰になるというか、「著者との対話」として読み進めることができるんじゃないかと思う。 その方が面白くなりそうです。

スマートな悪

戸谷先生がハイデガーアーレントを駆使して「スマート」について考察している。

タイトルからしてやられましたね。 「スマート」が現代を切るキーワードとして取り出せるとは思ってませんでした。 「スマートフォン」の「スマート」です。 実際、あれこれのデバイスに「スマート」が使われている。 この「スマート」とは何か。

言われてみれば、これは妙な概念だ。

超スマート社会

日本政府の目指す「超スマート社会」。

「人類は、狩猟採集の時代、農業の時代、工業の時代、情報の時代と進歩してきた。 この進歩の先にやってくる「Society 5.0 = 超スマート時代」に合わせた政策を施行せねばならない。」 (「一気通貫で推進」って麻雀でもしてたのか?)

まさか「進歩史観」のようなマヌケなものが残っているのも驚きですが、これから到来する時代を「超〜」と呼んじゃうあたりも恥ずかしい。 厨二病感が漂ってます。 その文脈に現れる「スマート」。 これが今回のターゲットです。

「フィジカル空間とサイバー空間を融合させて最適化する」というコンセプト。 要するに現実をリソースにし、それをデータ化して人工知能でシミュレーションを行い、効率良く運用していく。 まさに「コスパ」や「タイパ」を正義とする社会。 パソコン好きなら誰もが環境の最適化をやってますが、それを社会にも適用しようという話ですね。

目指されるのは「人間の最適化」。 それぞれの多様なニーズが効率良く満たされ、自由に自己実現ができるようにしよう。 ただし、そのままだと「万人の万人に対する闘争」が起きるので、本人たちは「自由だ」と感じながら、規範に沿った行動へとナッジを駆使して誘導する。 そのためにデジタル技術を活用しよう、と。

おお、フーコーが笑い死にしそうな管理社会だ。 アニメなら間違いなく「ディストピア」として描かれる未来図を真面目に検討しています。 そういうの、50年前に「ソ連」って国でやってたじゃない? 日本はそちらに向かうつもりなんですか。

痛み

とはいえ、政府の話ではありません。 「最適化」と聞くとワクワクしてしまう「私」の問題です。 暇があれば意味なくWindowsデフラグしていた頃の「私」よ。 この「私」の足元はどうなっているのだろうか。

戸谷先生はまず「スマート」の語源から検討します。 ハイデガー系の人のパターンですね。 古代ゲルマン語ではどうだったか。 そこから話が始まる。

この論法は「日本人にとってスマートとは何だろう」に繋がらないと思うんですが、ちょっと付き合ってみます。 すると面白いことにこの語源は「痛み」なのです。 小指をタンスのかどにぶつけたり、奥歯が虫歯になって沁みるときの、あの「痛み」。

「痛みによってリアリティがなくなる」は「なるほど」と思いました。 リアリティは他者とのすり合わせで構成されますが、「痛み」は「私だけ」で自分の中でいっぱいになる。 いっぱいになって、他のことには気が回らない。 自閉こそ「痛み」の特徴です。

そこから「それ以外のものがなくなる」という状態として「スマート」が「痩せる」や「鋭い」を意味するようになる。 ムダなく効率よく物事を処理する「賢い」も射程に入る。 それが現代になり「電話やメモ帳、ラジカセなどのガジェットが要らなくなる」という「スマートフォン」に繋がるわけです。 「スマート」は「他のものは要らない」という意味になる。 「余分なもの=ムダなもの」を排除することで成立する。

「痛み」に戻ると「余分なもの」とは「他者」のことです。 いっしょに「リアリティ」を作るためのパートナーとして「他者」があるのですが、それはいろいろと面倒くさい。 行動の予測はつかないし、気分次第でコロコロ変わる。 こちらの思うようにならない。 「他者」などいないほうが自分のニーズを満たすことができます。 「これさえあれば他は要らない」。 スマホを持って外出すれば、財布にもなるしカーナビにもなる。

それが「スマート」に含まれる価値観の正体だろう、と。

日本の「スマート」

翻って、日本語の文脈で「スマート」に「痛み」は含まれるだろうか。 普通に考えると「スマート」は「痩せている」のイメージかな。 それ以前も「スマート・ボール」はあるけど、あれはなぜ「スマート」なんだろう。

スマート・ボールは「パチンコ」ですね。 昔は、列が揃うと景品がもらえた。 台を縦にすることでパチンコに置き換わっていく。 場所を取るスマート・ボールはお祭りの屋台に厄介払いされる。 でもあれのどこが「スマート」か、わからないなあ。

「痩せている」の方は「ダイエット」に繋がっています。 「痩せる」は「やつれる」というネガティブな意味だけど、あるときから価値が置かれるようになった。 太っているより、痩せている方がカッコいい。 テレビ文化の影響だろうか。 自分の身体性をコントロールできているイメージで、太ると「自己管理ができてない」と見なされる。

医療が感染症から生活習慣病にターゲットを変えたのとも関連してそうです。 定期健診で成人病の早期発見を目指す。 結核などの感染症が減ってきてからの状況です。 「スマート=自己管理できている」というイメージが欧米で広がり、日本にも採用された。

そして「ダイエット」がバブル崩壊後に「リストラ」と同一視される。 思春期やせ症が一般化し「摂食障害」と呼ばれるようになる。 「スマート」という病理が社会に組み込まれ「スマホ」になる。 ほほう、この視点は面白い。

読中感想

さて、ここからどう話が進むか。 その予想をするのも読中感想の醍醐味。 ハイデガーの「ゲシュテル」が出てくるのは想定内として、落としどころをどこにするんだろう。

一昔前は「社会の歯車」みたいな表現がありましたが、それはチャップリンの時代まで。 ゲシュテルは「物の持つ可能性を搾り取れるまで搾り取る」ところにあるので、人間に適用すれば人間は「社会の燃料」として扱われる。 労働力として燃え尽きるまで、気持ちよく働いてもらう。 そういうナッジがあちこちに仕掛けられている社会になります。

結局「フィジカル空間とサイバー空間の融合」というのが前期ウィトゲンシュタイン写像理論と重なっているかな。 すると「データ化できないものについては沈黙せねばならない」となればいいけど、「沈黙」ではなく「存在しない」で処理されるだろう。 「個性」ではなく「どのカテゴリーか」で分類される。 服のサイズのように、SかMかLか、それともXLか。 オーダーメイドな職人技は排除される。

ナッジでコントロールできない人たちは「障害者」とされ、合理的配慮の対象とされる。 ハンディキャップを埋めるためのデバイスや薬品が開発され、そのマーケットが活性化する。 デバイスを使わないと損をするように社会に組み込まれていく。

もちろんメリットはある。 たしかに、今までできなかったことができるようになり、人は「自由」を感じるようになる。 いいことかもしれない。 ムダな手続きは省略され、待たされる時間もない。 空いた時間でリフレッシュしてメンタルヘルスも保たれる。

代わりに切り捨てられるのは「他者」だよなあ。 「知らないものと出会う」という機会は無になる。 「あなたへのおすすめ」は「これまで読んできたモノ」の延長で決まるから、そこから外れた出会いがない。 しかも「すでに評判がいいモノ」が検索の上位に上がるので、読んでいる人たちの間で「思考の平準化」が進む。 人工知能で就職の面接を行うと若手男性の採用率が上がる話が載っていたけど、「最適化」とは「それまでの偏見を維持すること」だから、その土台を疑問視する視点は生まれてこない。

その「超スマート社会」とどう戦っていくか。

少なくとも「データ化できないもの」があると意識することかな。 「サイバー空間」に全幅の信頼を置かず、どこかフィジカルなものにも足場を築いておく。 筋トレかあ。 いや、筋トレは「データ化による最適化」の最たるものか。 もっとムダで余分なもの。 「スマート」ではなく泥臭く「厚み」をもたらすものを。

まとめ

というわけで、わからん。 わからんままに後半へゴー!