Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

場所的存在としての思考

考えていることを書くことはできない。 文字に書いてみないと自分が何を考えているかはわからない。 言葉にして初めて「ああ、そうか」と気づく。

それを後から「自分の考えたこと」として追認するだけである。

現れる存在

現れる存在: 脳と身体と世界の再統合 (ハヤカワ文庫NF)

アンディ・クラーク (著), Andy Clark (著), 池上 高志 (翻訳),

ニューラルネットワークが出てきた1990年代の人工知能論。

それまでの人工知能はあらかじめ想定される状況を先取りし「AならばBをする」のルールを教え込む必要がありました。 全体像の青写真を持つことでゴールに向かって最適解を求める。 そういうデザインですね。

PDCAに似てるかもしれません。 目標を設定し状況に合わせながら効率良く実行する。 受容器で外界の情報を入力し、そのデータを中央集積装置で処理し、駆動系を使って出力する。 こうすれば自律的に問題解決できるロボットを作り出せる。 当時の認知科学者はそんな夢を追っていました。 楽しそうですよね。

でもそんな人工知能は「フレーム問題」にぶつかります。 「あらゆる状況を想定すること」は不可能だからです。 「想定」にはかならず「想定外」がある。 「想定外の出来事にも対処する」とは「想定外を想定する」なので無理があります。 初期の人工知能研究はそこで破綻しました。

それを乗り越える試みがブルックスの「身体性認知科学」です。 全体を把握する中心がなくても、小さな自律的モジュールを組み合わせれば、環境に対し適応的な振る舞いをする。 なんか難しそうな話ですが、クラークが挙げている例がわかりやすかった。

大学のキャンパスに新校舎を建設するとき、効率のいい動線をどう作るかという話が出てきます。 どこに舗装された通路を作り、どこに渡り廊下を設置するか。 現在の交通量を数箇所で測定し、そのデータをもとに新校舎建設後のシミュレーションをする。 校舎に理学部が入るとしたら理学部の学生の数で重み付けをし、文学部が移転するとしたら文学部の学生の数を考慮する。 そうして想定される新しい交通量に合わせ新しい動線の確保をする。 それが「従来の人工知能的」な解決法でした。

身体性認知科学ではそうはしません。 極端に言えば、校舎は立てても舗道は作らない。 しばらくは土の地面のまま放置します。 学生たちには不評でしょう。 でもそうこうするうちに授業は始まるし、キャンパスライフも再開します。 すると、人が歩くところは踏み固められます。 誰も通らないところには雑草が生える。 自然と地面に「動線」が描かれていきます。 これが見えてから歩道を舗装すればいいわけです。

それが身体性認知科学の考え方。

現存在

この身体性認知科学ニューラルネットワークになり今の生成AIになっていくのですが、考えてみると当たり前ですよね。 人間は生き物であって神様じゃないから全体は見えていない。 それでもうまく生きていけるわけです。

なぜかというと行動するからです。 行動すると環境が変わる。 環境が変わるとそれがトリガーになって次の行動が引き出される。 この相互作用を通して生活の最適化を行っている。 脳の中に完結していない。 環世界における試行錯誤を通して学習していく。

クラークの本の原題は「Being There」です。 ハイデガーの「現存在 Dasein」を英訳している。 それで「現れる存在」と訳されているけど「その場にあること」と取らないとわかりにくい。 生命体は場所とセットになっての生命体です。 「魚の命は水であり、水の命は魚である」の仏教的世界観と通底しています。 環境から切り離して生命を考えることはできません。 標本になってしまった蝶から「蝶」を知ることはできない。

それは人間においても変わりません。 人もまた、自分の環境を「第二の脳」として活用している。 メルロ=ポンティのキアスムやギブソンアフォーダンスとして環境は現れてくる。 環境に誘われながら、環境に働きかけ、人は生きていく。

物事を記憶するにしても、脳の中にハードディスクがあるのではない。 週末に出かけるコンサートのチケットを冷蔵庫の扉に磁石で張り付けておくことで、思い出すためのトリガーにしておく。 朝牛乳を取りだすとき「そうだそうだ、出かける準備しなきゃ」と次の行動を引き出す。 環境を外部記憶装置としながら生きています。

考えること

考えることも同じですね。 自分が考えるのではなく、環境が考えるのです。 言葉にすると言葉が考える。 出てきた言葉が次の言葉のトリガーになります。

iPad用の縦書きエディタにStoneというのがあって、そのホームページに永井玲衣先生の対談がありました。 永井先生は「哲学対話」を実践している人です。

哲学対話というのは「哲学カフェ」とか、子ども向けだと「p4c」と呼ばれる活動で、一般の人たちが集まって日頃気になっていることを語り合う場です。 哲学に詳しくなくても構いません。 話し合いの中で哲学者の名前が出てくることもありません。 ソクラテスのように「他者と一緒に考えること」が「哲学」だからです。

この永井先生のインタビューで思うのは「場の持つ意味」ですね。 ひとりで考えてもなかなか進展しないけれど、そこに他の人がいるだけで話が動き出す。 考えが深まるときに「他者といること」が重要な触媒になります。 「場所」が考えるわけです。 「場所」が自ら思考していて、参加者はそれに刺激される。 そうした創発的な構造が哲学対話にあります。 考えるということも、やはり「Being There」である。

まとめ

「エディタに書くこと」にも「エディタに考えてもらう」の側面がある。 こちらはそこに生まれる流れに乗るだけ。 受動的な態度というか、中動的というか。

そうするよりは、そうなっていく。 それには、こちらと一緒に踊ってくれる、柔軟なエディタが必要なんだよなあ。 Obsidianはちょっと自己主張が強いかもしれない。 どうしてもDraftPadに戻ってしまいます。 これもDraftPadで書き上げたし。