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なぜ老人は妖怪に似ているのか

a man standing in front of a bathroom mirror|600 Backlink | Photo by Thomas Marquize on Unsplash

還暦を過ぎてから鏡を見ながら思う。 「妖怪になってきたなあ」。 自分の顔がおどろおどろしく見える。 こいつはぬらりひょんか小豆あらいか。

一応若い頃は美青年の部類だった。 中学も高校も体育会系の部活でキャプテンも務めていたし、たぶんモテていたんじゃないかと思う。 記憶にはないけれど。

それが今では妖怪である。 つぶらだった瞳は曇天よりも曇り、目尻は垂れ下がり、まなこの下は袋状になっている。 顔じゅうシワだらけだ。 ロンゲだった頭部も爆心地のように枯れ果てている。 年月は恐ろしい。 あの美青年はどこに行ってしまったのだろう。

妖怪変化

でも考えてみると、推測の順番が逆かもしれない。 老人が妖怪に似ているのではなく、たぶん妖怪自身が年を取っているのである。 妖怪は高齢者だ。 人間よりも長い時間を生きている。 その存在を「老人」として描くのは理にかなっている。

一口に「妖怪」と言うけれど、そこには「お化け」も「幽霊」も含まれている。 ドラキュラや狼男みたいな外来種は含まれていない。 そちらは「怪物」だ。 どうも自分の中で「鬼太郎に出てきたか、怪物くんに出てきたか」が判断基準になっているらしい。 そもそも英語で「妖怪」をどう言うか思い当たらないので、この分類はあながちハズレでもなさそうだ。 「妖怪」は日本限定の存在なのだろう。

そうそう、もちろん「妖怪」を見たことはない。 何を「妖怪」と考えるかは「ゲゲゲの鬼太郎」に準拠している。 水木先生がいなかったら私の中に「妖怪」という概念は埋め込まれなかったろう。 あるいは今とは別の形態を取っていただろう。

鬼太郎

そこで「ゲゲゲの鬼太郎」について復習してみる。

味方になる妖怪を分類してみると。

  • 老人:目玉の親父、子泣き爺々、砂掛け婆々
  • おじさん:ネズミ男
  • 子ども:猫娘
  • モノ:一反木綿、ぬりかべ

見事に成人がいない。 妖怪の世界は高齢者社会である。 しかも正確に言えば、ネズミ男猫娘も「妖怪」ではない。 妖怪と人間のハーフだ。 妖怪どうしでの婚姻はなく、同族で家族を形成している様子もない。 ぬりかべにぬりかべ族の彼女がいるくらいだ。

ネズミ男はともかく、猫娘には実家があるはずで、定期的に家に帰っているのだろうか。 嫁入り前の娘が、鬼太郎とかいう男の家に出入りしていることを親は心配しているんじゃないだろうか。 ちゃんと連絡してあげてください。 と老人は老婆心から思う。

モノノケ

妖怪は、古くは「モノノケ」と呼ばれた。 Wikipediaの「モノノケ」の項に「モノ」を「無物無機物」とする解説があるが、これは怪しい。 「もの悲しい」や「物語」などの「モノ」はむしろ霊的な存在である。 『源氏物語』で六条御息所の生霊が「モノノケ」と呼ばれるように「魂の変化体(ヘンゲ)」が「モノノケ」なのである。

ただし平安後期になると、その「モノ」が無機物にも及ぶようになり「付喪神」が生まれる。 一反木綿やぬりかべのような無機物が変化したものが「付喪神」とされる。 「つくも」は「九十九」とも表記され、人が用いる道具が99年の月日を経ると「魂」を持つと考えられてきた。 変化による産物なので「オバケ」とも呼ばれている。

無機物であっても時間が経過すると「魂」が籠り生命体へと変容する。 日本人はロボットであっても、それに「心」が宿ると考えるのに躊躇しない。 それは欧米の人工知能論と大きく異なるところである。 「付喪神」という先行例があるからだろう。

もとは『山海経』に出てくる「九尾の狐」と思われる。 狐は千年生きるごとに尻尾が1本増え、九千年生きると霊力を持つようになる。 千年生きただけでもMP高めと思うが、さすが中国、時間感覚が広大だ。 日本だと99年くらいで手を打ってしまうのに。

このせせこましさのおかげで日本中に「モノノケ」が蔓延ることになる。 妖怪のオンパレードで、室町時代になると各所で百鬼夜行が見られたらしい。 これらの付喪神は年数によって霊力を得ているので、すべからく高齢者である。 しかも100歳超えの後期高齢者である。 なので妖怪は「老人」として表現されてきた。

妖怪ウォッチ

さて、現代に妖怪はいるだろうか。 これが心もとない。

日本人がキツネに騙されなくなったのは1965年かららしい。 それまでは津々浦々、田舎に行けば「キツネに騙された」「タヌキに化かされた」という噂話には事欠かなかった。 近所の主婦が「イヌガミ憑き」にもなってお祓い業が繁盛した。

高度成長期にはまだ「モノノケ」が共存していた。 つまり奇怪な現象が日常に溢れ、それを説明するための言葉として「キツネ」や「タヌキ」に濡れ衣が着せられた。

たぶん、電気が普及していなかったからだろう。 夜は漆黒である。 目を凝らせばオバケが部屋の隅にひしめいている。 山道には岩陰にキツネが身を潜めている。 川で泳げばカッパに足をさらわれる。 そんな時代だったのだろう。

でも、その子どもの世代、そして孫の世代はその気配を知らない。 夜中も煌々と明かりをつけ、すべてが照明の下に照らされている。 山道はアスファルトで舗装され、車で通り過ぎるだけ。 水泳するなら温水プール、妖怪と言っても「妖怪ウォッチ」だ。

妖怪ウォッチ」は2013年から始まり現在も続いている。 ジバニャンやコマさんは「老人」ではない。 ポケモンである。 イオンモールで子どもがぬいぐるみを欲しがるようなものは「妖怪」と呼ばない。 かわいいモンスターであり飼い慣らされたペットである。 どちらかというと「式神」のたぐいだろう。

いったい「妖怪」はどこにいってしまったのだろうか。

まとめ

国会中継を見ると「妖怪」の吹き溜まりだった。 そりゃあ「老害」は嫌われるわな。

追記

老人は半分「あの世」に足を踏み入れてるからなあ。 それが妖怪性になるのだろう。 老人には試験も査定もない。 身分や見かけをはぎ取られた存在になる。 「この世」の尺度に囚われている人たちにはそれが「不気味」に映る。

これはたぶんいいことだ。 と同時に厳しい。 「この世の尺度」をはぎ取られて「お前に何が残るか」を問われている。 それは付喪神の「モノ」と同じだろう。 どんな「魂」を持っているか露呈する。 醜い生き方をしてきたなら、やはり醜い。 それは仕方ない。