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日本語の「伝える」と「伝わる」

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音韻論的なことだけど。

接尾辞 -er と -ar

「伝える tutawer」は「伝う tutaw」に接尾辞 -er が付いたものと考えると、「伝わる tutawar」は接尾辞 -ar の付いたもの。 たぶん、この研究は誰かがしてるよなあ。

「温める atatamer / 温まる atatamar」や「変える kawer / 変わる kawar」もそうだ。 他動詞を作る -er と自動詞を作る -ar。 日本語の基本文法になっている。

「冷やす hiyas」と「冷える hiyer」もあるので、-as/-er の対も考えられる。 「化かす bakas」と「化ける baker」。 こちらも他動詞/自動詞になっている。

さて、何に躓いたかと言うと「教える osiwer」である。 これの自動詞形を考えると「おしわる osiwar」にはならない。 「教わる osowar」というふうに母音が i から o に変わる。 どんなときに母音が変化するのだろうか。 これの見当がつかない。

しかも「教わる」は「勉強を教わる」のように目的語を取る。 ということは自動詞ではなく他動詞だ。 「伝わる」だと「思いが伝わる」であって「思いを伝わる」ではない。 こちらは純粋に自動詞である。 すると -ar は単純に「自動詞を作る」とは言い難い。

日本語の中動態

もしかすると「-ar は中動態を作る」かもしれない。 他者に働きかけるのが能動態で、自己に留まるのが中動態である。 目的語はあるが、動詞の効果は自己に返ってくる。

そう考えると「勉強を教わる」も自己の変化に関わるので辻褄が合うように思える。 自動詞ではないけれど中動態ではある。 「教わる」は他者を動かすことではない。 そのニュアンスが -ar に込められていると考えられる。

では -as/-erの系列はどうだろうか。 「遊ばす asobas」は確かに目的語を取り、それは外部で完結する能動態である。 「遊べる asober」とすると -er は「可能を表す助動詞」に見えるかもしれない。 「もう一回遊べる、ドン」みたいな「遊ぶことができる」を意味している。

可能を意味することは否定しないが、それもまた中動態の効果に思える。 ゲームという目的語を取っているけれど、変化が起こるのは自己のほうだ。 「もう一回遊べる」という状態に自分がなっている。 自己の状態変化を中動態で表現しているのだろう。

「教わる」が中動態だとすると、教わることで自己が変化するのだろう。 「さっきまでの自分」が「これからの自分」に変わる。 質的な断絶が起こっている。

「教える」は相手に変化を起こすのであって、自分が変わるのではない。 「教わる」は相手をそのままに、自分のほうが変わる。 そこには「変化が起こるのは自己か他者か」の判別が行われている。

とすると「教わった」や「伝わった」には「自分がそれまでの自分でなくなった」という喪失体験が含まれる。 教わることの価値判断を事前にすることはできない。 自分が変化してから「これはそういうことか」と意味がわかる。

わかったときにはもう変化しているのである。

まとめ

読書感想文で「この本を読んで自分は変わりました」と書くと、どこかウソくさく感じるのは、この中動態性にあるのだろう。

「変わった」と気づくのは、日常生活で「いつもとは違う自分」を発見したときである。 その発見を驚き「なぜ?」と自問し「ああ、あの本を読んだからか」と納得する。

このプロセスは「読んだあとすぐ」には起こらない。 数カ月かかるかもしれないし、数年かかるかもしれない。 一生気づかないかもしれない。

「伝わる」とはそういうことである。