「伝わる」ということ。 単純化する方法を見つけました。
反転させてみる
ふと「書くこと」で何が伝わるのだろうと思いました。
「伝わる」とか「教える」とかいうこと。 一般には、何か情報を提示すれば「このことは伝えた」になるのだと漠然と考えています。
学校の授業とかそうだ。 たしかにプリントを配り教科書を読めばカリキュラムは進むだろう。 でも、教わる方がわからないままでいるなら、何も伝えたことにならないのではないか。 すると「伝わる」について深める必要がある。 これが長い間、謎でした。
そうか、逆から考えればいいのか。
どんなとき「伝わった」や「教わった」と感じるだろうか。 自分を受け手の立場で考えてみる。 自分が「わかった」となるのが「伝わった」の瞬間である。 「わかった」も「わかった」、「本当にわかった」と感じるのはどういうときか。
それは人生を振り返えればすぐ思いつく。 「伝わった」と思えるのは追体験できたときです。 当事者の話を聞いて、出来事のその瞬間にまるで自分も居合わせたかのように感じたとき。 「わかった」と思うのはその瞬間。
それまでは全然わかってなかった。 「わかってなかった」がわかる。 そのとき「伝わった」と感じる。 これが「伝わる」の定義と言えそうです。
でも...。
世界の適切な保存
人の記憶に残りにくいもの。 残りにくいけれど、それが誰かの生きた証となるもの。 そうしたテーマで、いろいろな体験を集め、その「残しにくさ」を考察しています。
はじめは「うっかりした言い間違い」とか「うまく表現できなかったこと」といった、日常に起こる「残りにくいもの」を取り上げているのだけど、後半のテーマが重かった。 被曝体験や震災の体験、ガザ地区の虐殺に話題が移っていきます。
「震災を乗り越えて前向きに行こう」でもいいのですが、前を向くと見落としてしまうものがある。 それが未消化なまま身体に残ってしまう。 誰かに伝えたいけれど、うまく言葉にできない。 そんな未消化な想いが被災者の人たちに残っている。
これを「適切な保存」をすることで、苦しんでいる人の助けになるんじゃないか。 そもそも、それを「保存」することは自分たちのためでもあるんじゃないか。
でも「保存」とは言え、ビデオで録画してもインタビューを録音しても、何かが抜け落ちます。 広島で被爆した人が、なんとか自分の家にたどり着いてみたら、そこに母親と弟が、互いに抱きしめ合ったまま肉片となって焦げている。 そのとき感じた臭い。
それは、どんな道具を使っても「保存」できない。 嗅覚を記録する装置ができたとしても、そんなことじゃない。 他の人間に何ができるというのだろう。
永井先生の哲学対話はそうした場にも足を運ぶのですね。 話している人になんとか「伝わった」と思ってもらえるように。 伝わるわけがないけれど、だからといって聞くことを諦めるわけにはいかない。 そこに共感やアドバイスの余地はありません。 わかるわけがない。 保存できないことの保存。 そんな矛盾を抱えた「対話」の話が続きます。
でもそれ自体が「伝わった」なのだと思いました。
激しい無力感に打ちのめされる。 それは追体験をしている証です。 言葉を飛び越えて身体に響いてくる。 本を読んでいても伝わるものがあるのだから、永井先生の身体には確かに「それ」が刻み込まれた。 「保存」されたのだろうと感じました。
まとめ
「それ」が伝わったときには「わかった」と思えないのだろう。 「わかった」だとウソになってしまう。 頭でわかることじゃなく「その場に居合わせること」なのだから。