Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

形にならないものがデュナミスである

テキストの持つ潜在的な力について。

随筆のテンポ

随筆で書くときにまず文が現れるままにします。 文が現れ、それからどちらに進もうかと思いつつ次の文が現れるのを待つ。 そんな感じに箇条書きしています。 アウトライナーで書くのと同じですが、最近はObsidianに直接箇条書きしていく。

この箇条書きの段階でも「マップ」を思い浮かべています。 フリーライティングとマッピングが並行して行われている。 この「仮のマッピング」も捉えておきたいですね。 「いま定義を書いているなあ」とか「いま例示を挙げてるなあ」とかの位置づけを確認している。

このマッピングは3種類くらいに分類できます。

  • what...それが何かの定義や感想を書く。
  • why...それがなぜ必要かの理由や目的を書く。
  • how...実行する方法や具体例を書く。

いま「仮のマッピング」の「what」を書きました。 こんな感じですね。

思いつくままに書いてはいるけれど、そこに「why」は隠れています。 「書くということを明らかにする」。 テーマを持っている。 全くの自動書記ではありません。 現れるセンテンスもその「why」を巡って連想をしている。

ただそれがどう繋がるかは現段階ではわかりません。 書いていくうちに「形」が見えてくる。 そういう信念というか「祈り」のようなものがあります。 「形になるといいなあ」みたいな願いを込めて書いている。 そこが「how」になっています。

形となること

センテンスという素材を集め、それを「形」にする。 センテンスが集まり段落になり、段落が集まり章立てとなる。 ブロックが大きくなってテキストが編み込まれます。

素材を集め「形」にすると、次はその「形」が素材となって上位の「形」を作る。 「書くこと」はそんな段階的なプロセスで形成されます。 この素材と形の関係。 アリストテレスなら「質料と形相」と呼ぶ側面です。 レイヤーを積み重ねてメタレベルに仕上がっていく。

「形にする」と書きましたが、意識してコントロールはできません。 書いているうちに「形になる」のが実感です。 テキストのうちに「形になろうとする力」が働いている。 デュナミス(潜在態)と呼ばれるもの。 人にできるのはそれの邪魔をしないこと。 それがメソテス(中庸・中動態)に当たります。

イカの種を蒔けば、時期を経てスイカがなります。 種の中にデュナミスがあり、それが現実に現れてくる。 英語で言えばダイナミックスです。 形を持たない「力」が形を求めて活動している。 「書くこと」はその「形」に近づこうとする行為です。

適切な保存

永井先生の新刊を読み始めました。 相変わらず泣きそうなくらい面白い。

哲学対話のエピソードが中心ですが、その中に現れた「偶然」や「言い間違い」がテーマです。 もし映画であれば「不要な部分」としてカットされるところ。 でも人生はその「不要な部分」の積み重ねでできています。 コスパで測れるものではない。

それが人生のある局面でふと思い浮かんで、心を慰めてくれたり、大きな決断のもとになったりする。 忘れて消えてしまったと思っていても、どこかに残っているし、できれば適切に「保存」しておきたい。

これは「守護獣」だなあと思いました。 ノイズを切り捨て、一貫性のある物語を生きていると思い込むと、人は「孤独」に閉じ込められてしまいます。 かといって、人の目を気にして承認欲求で生きていたら、誰の人生なのかわからない。

自分の内側に「他者」に開かれた通路を持つ。 それが「守護獣」です。 「こんなことを自分は考えていたんだ」という驚き。

その驚きを「ノイズ」として捨ててしまわない。 適切に保存する。 センテンスを書くことの意味はそこにあるのだろう。 「形」にならなくてもログには残る。 そのまま死蔵する「肥やし」に過ぎなくても、「肥やし」が土壌を豊かにする。

その豊かさが「デュナミス」なのだと思いました。 どれだけの「ムダ」を大事にしてきたか。 テキストはそこを正直に白状してしまいます。

まとめ

アリストテレス倫理学は「人間の生活全般」を取り扱っていますが、テキスト論としても読めますね。