ここのこのこのこ、否、ここのところ考えている執筆プロセス論。
執筆プロセス
書くことには4つの段階があります。
- 随筆段階:フリーライティングのこと
- 作図段階:随筆から地図を作る
- 編集段階:読者目線で推敲する
- 時熟段階:原稿を寝かせておく
時熟のあとは随筆に戻り、これがループする。 ループしながら螺旋階段を昇っていくイメージです。
単純に分割できるものではないけど、分けておくと「いま取り組んでいるのはどの段階か」意識しやすい。 それぞれで何が必要で、どういう効果が期待できるか。 ある程度の筋立てを作っておくと混乱せずに済みます。
随筆段階
「徒然なるままひぐらし、硯に向かいて」と徒然草にあるように、筆が文章を書いてくれる段階。 心に浮かぶテキストを拾い集めていく。 自分が書いているのか、テキストが書いているのかわからない。 出てきた文章に自分で驚いたりする。
この段階を考察したとき、出てきたのが「アレゴリー」でした。 ベンヤミンという哲学者から借りました。 「これはあれか」という発見的な連想のことです。
フリーライティングをしていると随所でアレゴリーが起こる。 「これはまるで将棋のようだな」と思えば、「これ」を分析するとき「将棋」をメタファーとして使える。 そうやって連想は広がっていきます。
作図段階
「書くこと」を迷宮探索に喩えてみる。 すると、迷宮を歩いたあと「マップ」を作る段階があるんじゃないか。 そこに焦点を当てたのが「作図段階」です。
随筆段階で出てきたテキストはまだ「下書き」です。 そこに何が書いてあるか自分でもわかっていない。 それでテキストを並び替え、グループ化し、見出しをつけたりしながら「箱」に収めていく。 全体で何を書こうとしているかを「マップ」にします。
この段階ではアウトライナーが役に立つ。 手描きでコンセプトマップを作るのも悪くない。 テキストを別の観点から眺め直してみる。
編集段階
こうして出来上がったものが「読み物」として成立するかどうか。 読者の立場に立って、もう一度通しで読んでみる。 声に出してみると、気分が出ます。 意図の伝わらないところやリズムの悪いところが目につく。 そこを推敲します。
でもベンヤミンがどこかで「推敲すると文が悪くなる」と書いていて「それもそうだなあ」とも思う。 ベンヤミンの文章は読みにくい悪文だと思うけど、迫力はあるんですよね。 推敲すると迫力が失われる。
それで「推敲」ではなく「添削」かな、と思いました。 編集とは添削である。 添えたり削ったりする、これは野菜を育てるイメージです。
より大きく育つように添え木を立てる。 枝分かれしすぎたらバッサリ剪定する。 推したり叩いたりではないのだから、赤ペン先生の気持ちになって「添削」。 テキストの育つ道筋を探します。
時熟段階
編集し終わったら寝かせておく。 手を入れたくなっても一日時間を置く。
自分自身が寝ることが大事。 寝ている間にテキストが「言語阿頼耶識」に染み込んでいきます。 脳が寝ることはありません。 睡眠の間、頭の中では「昼間の体験の組み換え」が行われています。 これが次の日の「閃き」の基盤となる。
だからぼんやりしていても「頭が寝ている」というわけではない。 言語阿頼耶識が活発に作業している。 そちらが忙しいので「現実」に注意を払うリソースがないだけです。 たぶんこれが脳科学で言う「デフォルトモード」なのだと思う。
文脈の発明
さて、こうして書いて記事を振り返り「ここまで何を書いてきたのだろう」と考えること。 これも「マッピング」ですね。
螺旋階段を一段上がったところのマッピング。 もし「本」とかを仕上げるなら、「記事」を素材にして形を整える。 さらに大きな「箱」を作り上げることになります。
素材を集めて形にし、その形を素材にして一段上の形にする。 一段ずつ階段を昇る。 アリストテレスはこれを「matterとform」の二項対立として捉えました。 彼は「テキストを作ること」をメタファーにして、いろんな現象を読み解こうとしたのでしょう。 物事には「素材」と「形」の関係が反復している。
一段上の「形」にするにはScrivenerが最適です。 Ulyssesでもいい。 記事を集めて章を作る。 章を集めて本に仕上げる。 テキストにはそうした作業があります。
それが「エディタ」という意味です。 ラテン語の edere を語源とし「外へと引き出す」を原義にしています。 何か「隠されたもの」があり、それを発見する。 そのためのツールが「エディタ」と呼ばれる。
「隠されたもの」は「文脈」です。 随筆に「文脈」はありません。 それぞれ「アレゴリー」や「阿頼耶識」など、変な概念が散りばめられていてバラバラな状態です。 これをもとに「本」として読めるようにする。 それが編集段階。 どういうテーマをメロディーラインとするのか。 バラバラなものを繋ぐ「糸」として何を立てればいいか。
バラバラなままでも読者は「文脈」を読み取ります。 それは作者の意図とは関係ありません。 読者とテキストの相互作用によって、あとから形成されるのが「文脈」だからです。 「テキストはリニアだ」という先入観がある。 そういう意味で、人工知能の「文脈解析」って「文脈」じゃないよと思っている。 客観的には取り出せないはずだけど。
とはいえ、作者も「読者」として参加していい。 それが編集段階での「文脈の付与」だと思う。 自分なりに「文脈」を見つけて、それに添うように書き直す。 添削する。 「アレゴリーが相似形の発見であるなら、阿頼耶識も同じ原理で動いているんじゃないか」とか、コンセプト間の関係性を見つけていく。
発見よりは発明が近いかな。 筋が通ればそれでいいし、通らなかったら「ここで通らなくなった」と行き詰まりのポイントを明記する。 そうすると「ダンジョン・マップ」として仕上がっていきます。 「本」とはダンジョン・マップのことなのだから。
まとめ
今回「文脈の発明」という概念を見つかりました。 なんだか出口から遠のいている感じがする。 このままでいいのだろうか。 不安だなあ。