Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「これはあれか」のアレゴリー

散歩しながら「動詞から見る」を練習していると「まるで小説の地の文だなあ」と思えてきました。 自分を小説の中の登場人物かのように感じる。 モブキャラだけど。

「動詞から見た世界」には詩情が漂っています。

マインドマップ

マインドマップとコンセプトマップの違いを知って「ああ、これはあれか」と気付きました。 ここのところ考えている「随筆段階とマッピング」ですね。

マインドマップは発想法であり、思考を拡散させて新しい視点を生み出すのに使います。 ということは随筆段階。 フリーライティングと相性がいい。

対してコンセプトマップはキーワードを抽出し構造化するところに主眼がある。 それはそのままキーワード・マッピングを意味しています。 現地を歩いて地図を作る。

ということは「随筆段階→マッピング」は「マインドマップ→コンセプトマップ」にも対応している。 鏡の関係にあります。

ここを推し進めると、マインドマップが関係を捉える図であること、 動詞的な側面で発想に流動性をもたらしていることが、そのまま随筆段階の特徴になるのではないだろうか。 そういう切り口が思いつきました。

つまり、フリーライティングを「動詞化」と捉える観点です。

動詞的世界

随筆段階は「単語を並べること」ではありません。 この「随筆段階は単語を並べることではない」という文も二項関係になっています。 「随筆段階」と「単語を並べること」の二項目について、その「関係」を記述している。

フリーライティングに現れるテキストは「文」の形をしています。 「文」とは関係の記述です。 「単語」に目を奪われてはいけません。

マインドマップは「1ワード」を書き加えるので「単語」を優先しているように見えるんですよね。 でも描くのは「ワード」ではなく「ブランチ」じゃないでしょうか。 「繋ぐ線」であるブランチが意味を担っている。 その意味を文に落とすと、随筆段階のように「動詞」の形を取るのだと思います。

マインドマップはむしろ「動詞」を伏せる工夫かもしれません。 二項関係を示すとき、たった一つの「動詞」では捉えられない。 「関係がある」とは「相互作用がある」ということです。 能動的な側面も受動的な側面もある。 触れることは触れられることでもある。 マインドマップはそれを「1本の線」で済ませています。

随筆段階での「文」もまた、その「相互作用」を書き留める試みです。 描写しているのは「動詞」で構成される世界。 この世界は変化し続けて留まることがありません。 だからなかなか「これでいい」にならない。 言い足りない感じが残ります。

アレゴリー

「これはあれか」。 この体験をベンヤミンは「アレゴリー」と呼びました。 寓話的思考という意味です。

新しい発見をするとき「これはあれか」という閃きがあります。 それまで繋がっていなかったものが繋がる。 一見無関係に見えるものが一瞬のうちに接続する。 「A:B」の関係が実は「C:D」ではないか、と。 「マインドマップ:コンセプトマップ=随筆段階:マッピング」という相似関係を見つけ出す。 これがアレゴリーです。

固有名詞の問題を考えるとき、ベンヤミンは唐突に聖書の話を持ち出しています。 「アダムが全てのものを名付けるように神に命じられるのは何故か」と考え始める。 聖書を寓話として捉え「言葉とは何か」を考える。 そうした発想法を採用しています。

もちろん聖書は言語学のために書かれてはいません。 神でさえ考えていない。 なのに、その無関係なものを連結し「A:B=C:D」の相似形を探し出す。 人間はそんな思考をすることができます。 考えてみると変な話です。 ロジカルじゃない。

これは人間が有限な存在だからでしょう。 「全体像=物自体」を知ることができない。 物事の断片しか見ることができない。 その代わり、その断片の配置から「構造」を読み取ることができます。 星の配置を見て、そこには存在しない「星座」を読み取ろうとする。 関係性を抽象化する能力を持っています。

発想がユングに似てますね。 というか、同じ時代のドイツ文化圏にいるから互いに参照したのかも。 フランクフルト学派精神分析を哲学に取り込もうとしたし、精神分析もそれを知らなかったとは思えない。 見えないところをアレゴリーで可視化する技術。

言葉は関数である

プログラミングを考えればいいかな。 「A:B=x:y」のように、項目を変数にできる。 それは「y=f(x)」のように「関数」が取り出せるということです。 神話を読んで、そこに言語学的な問題を読み込める。 「固有名を扱うのは神ではなくアダムである」とか。

よくよく考えると言葉自体がアレゴリーで生成します。 子どもが言葉を覚えるとき「名詞」を覚えるのではありません。 「○○を取って」という関数を覚えている。 場面ごとに「○○」に違う名詞を代入できます。 「ネコが走ってる」が使えるようになると「ウマが走ってる」も「電車が走ってる」も使えるようになる。 名詞の部分を変数にし「関係性」という関数を習得する。 これがアレゴリーの能力なのでしょう。

アレゴリーは「正しい」とは無縁です。 「山が走ってる」と言葉にできても、実際に山が走るわけではない。 現実には起こらないことも文章として表すことができる。 言葉が使えるとは「ウソ」も話せることです。 アレゴリーが妄想や陰謀論を産むこともある。

でも、電車の中で外を見ていた子どもが「山が走ってる」と言えば、通り過ぎる山を「あたかも山が動いているように感じた」を表している。 無意味ではない。 見立てている。 見立てることで体験の新鮮な切り口を見つけている。 それは「詩」とも言えるし「相対性理論の発見」とも言えます。

このことがマインドマップじゃないかと思いました。 動詞的な世界を動詞のままに描く試み。 「関数」を意識する。 そのことでテキストが次の「文」を生み出す。 そういう感じですね。 新しい切り口を発見するのは「これはあれか」を入口にしている。 迷宮の隠し通路が開く呪文になっている。

行き止まりと思っても、その壁に扉が埋め込まれている。 その扉に「これはあれか」と書いてあるわけです。

まとめ

どういうトレーニングをすると「これはあれか」が思い浮かびやすくなるんだろう。 日頃から物事を「寓話」として読み取る練習をするのだろうか。