読み始めたところだけど。
手段からの解放
國分先生の新刊。 阪神淡路大震災に合わせて出したのかな。 「暇と退屈の倫理学」で出てきた「暇を楽しむ」の延長にある議論です。 論文と講演とが並んでいる。
「タバコの依存症について」という名目で研究費を獲得したけど、どうも「タバコ」について考察した哲学者がいないみたいですね。 西洋にとって「タバコ」は近代に輸入されたからかなあ。 もちろん古代ギリシアの人たちが言及するわけがない。
それで「嗜好品」まで広げてみたけど、これも該当なし。 「嗜好品」という概念自体が英語やフランス語にない。 かろうじてドイツ語圏に「お楽しみ手段」みたいな概念があって、それを明治の日本が翻訳して「嗜好品」になったらしい。
ということは、ドイツ語圏の哲学なら「嗜好品」にアクセスできるんじゃないか。 そんな目論見でカントを読んでみた、みたいな話になってます。 最初のテーマから離れていってるんですけど、いいんでしょうか。
まだ無いのだったら、直接「タバコ」を哲学した方が面白かったんじゃないかなあ。
カントの三批判書
でも國分先生のカント論、わかりやすいです。 なかなかカントの盲点を突いています。 「快適さ」という概念が妙な立ち位置になっている。 これを深めていくわけだな。
で、関係ないことですけど、カントのおさらいを読んで「ああ、そうか」と気づくことがありました。 これって、プラトンの「真善美」が「純粋理性/実践理性/判断力」に振り分けられてますね。 3つのイデアについて、それぞれの批判書で考察されている。 しかもアリストテレスの「認識知/実践知/制作知」を重ね合わせている。 つまり、プラトンとアリストテレスの統合をカントが目指していたのか、と気づきました。
真善美のイデアは人間の判断基準です。 物事について真偽を判定することもあれば善悪を区別することもある。 さらに美醜で判断することもある。 物事の判断はこの3つのどれかに該当します。 しかも、それ以上遡れない。 だからイデアとされる。
真偽は「正しいか/間違っているか」ですね。 これは「実際のところはどうなのか」という事実確認です。 「青虫が成長してモンシロチョウになる」は観察して真偽を確定できます。 「物体の落下速度は v=gt」も実験して「正しいかどうか」を判定できる。 こうしたものは純粋理性の扱う分野、つまり認識知(科学)の範囲です。
善悪は「良いことなのか/悪いことか」です。 こちらは「どうあるべきか」という目標に関わっている。 哲学では「当為」と呼ばれます。 「お年寄りが立っていたら席を譲るべきか」は観察しても実験しても、その善悪は確定できません。 「人間社会はどうあるのが望ましいんだろう」という理想の話だからです。 こうしたものは実践知(倫理学)の領域で、実践理性が関与します。
そして美醜。 これは事実でも当為でもない。 「かっこいい/かっこよくない」という価値判断です。 アリストテレスだと『詩学』で演劇論を論じてますが、あれですね。 演劇はウソの話で構いません。 主人公が「悪人」でもいい。 真偽や善悪のモノサシでは測れず、なのに「いい話だった」と感激するのは何だろう、と。
カントによると構想力(イマジネーション)が関わっていて、可能性の話になります。 芸術は想像を駆使する世界です。 「想像を絶するような」とか「想像を超えた」とか、「ありえない」という感覚から美(素晴らしい)や崇高さ(物凄い)が生まれます。 ここに感性的な判断力があり、その観点から制作知(芸術論)が論じられます。
カントの問題点
きれいに分類されているけど、カントの文章自体に一貫性は保たれていません。 書いているうちに思いついたことがどんどん予定を変えていく。 なので、國分先生みたいに表でまとめようとすると、辻褄が合わないところが出てくる。 そこが面白い。
カントは「一次的なもの/二次的なもの」にわけているのですが、そのときの都合でわけているので微妙にニュアンスがズレている。
真偽の「一次的/二次的」は「経験が介在するか」です。 「三角形の内角の和は180度」というのは経験の介在がありません。 経験しようがしまいが、それは「真」である。 こういう一次的な真偽は「アプリオリ」と呼ばれます。
善悪の場合は「それ自体が目標か、あるいは手段か」です。 それ自体が目標なら「端的に善」で、手段にすぎないなら「有用なもの」。 國分先生も例に挙げてたけど、大学に入るために受験勉強するなら、その「勉強」は手段です。 間接的で「有用なもの」。 もし、勉強自体が楽しいなら、それは直接的で「端的に善」となります。
で、ここで「楽しい」が出てきちゃってるんですよね。 カントは「快」として4つのものを挙げている。 今の「端的に善」と、あと「判断力批判」に出てくる「美・崇高さ・快適さ」の3つ。 これらは楽しいものです。 楽しいものだけど、三批判書では均等に配分されていない。
そして美醜の「一次的/二次的」は「美+崇高さ/快適さ」で分けられます。 真偽や善悪は「直接的か、間接的か」が分類基準だったのに、美醜だとちょっと違うんですよ。 「普遍的か、個別的か」に変わっています。
美であれば「誰もが美しいと思うだろう」という普遍性があります。 崇高さもそうですね。 でも、快適さには「この状況は誰にとっても快適」とは言えない。 普遍性がないので「二次的」という理屈をカントは出してきます。
しかし、なぜ個別的だと「二次的」なのか。 そこはすんなり入ってきません。 まあ、プラトン的な「イデア」が想定されていて、個別的な趣味の問題は「イデア」で語れないからだろうと推測できますけど。
まとめ
でも「タバコ依存」の問題に戻ると、この「個別的快適さ」が鍵になります。 たぶん、この本の後半にそこあたりの深掘りが出てくるのだろう。 「感受的 pathologisch」がチラッと出てきたけど、近代になるとこの用語、「病理的」という意味を帯びるんだよなあ。 ここあたりが関連するのだろうか。
依存症自体は「快適」どころか「苦痛」でしかないし、「暇」への恐怖心が隠れていると思う。 それでいて「タバコ」は何かの手段ではなく、それ自体が目的になっている。 ここを國分先生はどう捌いていくのか、楽しみです。