だいたい見えてきた。
禅の教室
伊藤さんはいろいろお経の和訳を手がけてますが、この対談では「素人」に徹し事細かに「それは何ですか。日本語で言ってください」と詰め寄ります。 殺気を感じるくらい攻撃的で、いい。
藤田さんはアメリカの禅センターで指導していたので、説明の仕方が親切です。 そりゃあ、そうですね。 仏教を知らない文化圏の人たちにも伝わる言葉を考えてきた経験があるから。 とことん自分の言葉になるまで消化している。
そして博学です。 嘘が入らない。 わかりやすくするために誤魔化したりはしない。 禅の根っこの部分が言葉になっています。
騎牛の心
面白かったのは、伊藤さんが乗馬の話をして、藤田さんが「その感じが禅ですよ」と言ったところでしょうか。 馬に乗るときの姿勢。 それと坐禅のときの座り方はいっしょで、自分自身を「馬」にお任せする。 脱力して、気持ちのいいところを感じて座る。
考えてみれば、苦行を捨てたお釈迦さまなのだから、坐禅が苦しいとしたらおかしなことです。 座り方を間違っている。 痛みと闘ったり眠気に抗ったりするような苦行のはずがない。 そもそも警策に叩かれることが坐禅ではない。
痛かったら座り方を変え、眠かったらそのままちょっと寝てみる。 要は身体をその場にお任せして、ただあることに徹していればいいだけのことです。
坐禅が乗馬に似ているのは面白い指摘で、考えてみると鎌倉時代に武家階級に禅宗が広がったもの、彼らが日頃から馬に乗る習慣があったからかもしれません。 ああ、これはあれか、と閃きやすかった。
十牛図で5枚目かに「騎牛帰家」があるのも示唆的ですね。 動物の上に座る。 「私」と「牛」とが心を通わせ一体となる。 自分が何も作為しなくても、淡々と家への帰路を進んでいける。 こちらは農家の人たちに馴染みの身体感覚だったんじゃないか。
中動態
最近、自分が同じテーマの本を好んでいることに気づきました。 同じテーマの本を、子供の頃からずっと探して読んでいる。
それは「中動態」ですね。 國分先生のおかげで「言葉」が見つかって、その切り口で振り返ってみると、どれもそれなのかと驚いています。 もちろん、その言葉に引きずられて過大視するリスクもあるけれど、知らなかったら取り出せずにいたことでしょう。
仏教の「中道」にしてもハイデガーの「本来性」にしても、いずれも中動態を指向している。 自ずからそうなる、というあり方。 親鸞の自然法爾。 「能動態」とは異なるものが自分のうちにある。
それをうっかり主体化すると「神」とか「タオ」とか呼ぶのでしょう。 主語のないところに主語を立ててしまう。 文法上、主語の位置を空にできない言語だと「It」や「Es」を立てて扱う。 実体がないのに実体化して混乱する。 それがこじれて、何かが自分に乗り移るみたいな、統合失調症的様相を呈してしまう。
でも、それは中動態であり、むしろ「生きること」の基盤にあります。 中動態があって、それを振り返ることで能動態が出てくる。
ポイエーシス
「書くこと」はまさにそうした事態であって、自分が書くのではなく、言葉が自然と湧いてくる。 筆から文字が出てくるので「筆者」です。 その「筆者」の書いたものを見て、「読者」の「私」が「自分はこんなこと考えていたのか」と驚く。
こうした事情は、藤田さんが「ポイエーシスとテクネー」を出して説明しているのがピッタリきました。
ポイエーシスは「ポエム」の語源に当たるギリシャ語で、降りてくる言葉を捉えるような制作方法を指します。 アリストテレスの『詩学』の原題が「ポイエーシス」です。
テクネーは「テクニック」の語源で、目標や計画を立て、それに沿って建造物を作る方法です。 「ニコマコス倫理学」で「制作知」と呼ばれたもの。 ポイエーシスとテクネーの違いは何かと言えば、中動態と能動態の差異に相違ありません。
自分の中に「園芸家」と「建築家」がいる。 ノート・テイキングでよく言われます。 園芸家がポイエーシスで、建築家がテクネーです。 言葉を育てることと、その言葉を材料に論を作りあげること。 執筆プロセスはその二段階になっている。
そしてそれは、生活のプロセスでもあります。
まとめ
そしてこの「中動態」を「自分の言葉」で表現できることだろうなあ。 自分の畑の作物となるか。 借り物の間は、やっぱり借り物臭が拭えない。
マイコンの時代
あの時代が良く出ている。 みんなビンボーで狂気の中をサバイブしてたよなあ。