これは面白かった。
手の倫理
Arc Searchで要約しようとしてもできなかった記事。 なぜか弾かれてしまいます。
リーディングモードにもならないので、テキストを拾えないようにしているのが原因とわかるけど、それ以上に要約を許さない。 一言では言えないことが語られている。 そんな印象がしました。
内容は伊藤亜紗先生のインタビューです。 ダンサーの+Mさんが聞き手。 『手の倫理』が出版された2020年に「身体性」を巡る対話をしています。
掻くこと
内容は読んでもらうとして、引っかかったのが伊藤先生の「中学のときはヤンキー文化で、好きな人の名前をカッターで腕に書いてました」のところ。 (「同級生の話」みたいに喋ってるけど、こういう「同級生」ってたいていは「自分」でしょ?)。 いやー、名前を腕に彫るんだ。 平成のヤンキー、すげー。
これでやられましたね。 ここまでは知的な対話をしているのに、ここから加速して面白くなります。 こうしたエピソードを引き出した+Mさんもすごい。 対談者の身体感覚を引き出す。 モードが変わる。 インタビューの妙味が味わえます。
それにしても「腕に書く」は衝撃がある。 それは身体と文字とが出会う瞬間を捉えています。 「書く」の身体感覚が「掻く」であることに気付かされる。 そう、「書く」とは身体に刻みつけることなのです。
この原型は「入れ墨」なのではないか。 そう感じました。
入れ墨は罪人を識別するためのシルシですが、もとは漁師の文化として発展しました。 海で溺死したとき、身体は腐敗し「誰の死体か」の特定ができない。 それで個人を特定する手段として「入れ墨」が開発されます。 もちろん魔除けの意味もあったでしょう。 危険と背中合わせの漁業において「不運」を避ける工夫でもあった。
身体は簡単に「自然」へと吸収されます。 皮膚の持つ境界性は不明瞭で、自他が入り交じるようにできている。 樹木の幹に触れれば樹木と一体化し、恋人の肌に触れれば恋人と一つに融合する。 その曖昧さは利点であると同時に、漁師にとっては「海と一体化すること」、つまり「死」に繋がるリスクを負っている。
入れ墨は、肌に文化的な記号を施すことで、その融合を阻止する装置になっています。 耳無し芳一が身体じゅうにお経を書いて、怪異から身を守ったのも同じロジック。 皮膚を文字化することで「自然」と「個人」の間に境界を引く。 そのとき「個人」が生まれる。 罪人に入れ墨を施すことは同時に「個人」を生み出す契機となり、それが「個人」として生きる博徒たちの入れ墨となる。
好きな人の名前を腕に書くのは、その好きな人と一体化しながら、周囲から自分を切り離し「個人」として生まれ直す、そんな思春期的な心性があるのかもしれません。
昭和のおじさんにはわからんけど。
まとめ
個人の中に「意識と身体」という二項対立があると考えてしまうけど、実のところ「身体」は初めから環境と溶け合い「間身体性」を形成しているのではないだろうか。 「身体」は「個人」を超えたところで生きている。
「さわる」と「ふれる」の違いから論を進め、体験の持つ豊潤さを描いています。 能動態と中動態の差異でもあり、執筆プロセスの「随筆段階」も「ふれる」から生まれると思っているので「間身体性」についても考えないと。
今回の対談も、二人の言葉が「ふれる」の領域に突入していくのが面白かった。 こういうのが「対談」だよなあ。 言葉が踊り出している。
そういえば、古語の「たぶれ」や沖縄方言の「ふれむん」は「狂気」を意味していて、「ふれる」は人間世界から「自然」の領域に溶けだしてしまうことを指しているなあ。 あ、「気が触れる」かぁ。 これは、そういうことなのかもしれない。