Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

執筆プロセスの「現実」というブラックボックス

言葉は身体を模倣している。

「現実」という迷宮

書くことを迷宮にアレゴると、マッピングだけではないことに気づきました。

マップは迷宮全体を視覚的に捉えます。 全体像を俯瞰する。 迷宮の全体像は部屋と部屋が通路で繋がりネットワークを形成しています。

書くときに対象となる「現実」も迷宮です。 事実が入り組んでリゾームになっている。 もちろん、ファンタジーを描くのであっても、それはファンタジーという「現実」であり事情は変わりません。 ネットワークを記述することになる。

ところが「言葉」はこの迷宮を一気に描き出すことはできない。 言語はリニアな構造をしています。 線形になっていて、一つ一つの事象を押さえていく書き方になります。

現実はリゾームなのに言葉はリニア。 この構造的なズレが「言い尽くせない」という感覚を生む。 いくら書いても「これで良し」とならない。

ルート的存在

考えてみると当たり前で、迷宮探索はひと部屋ずつ見て回るしかありません。 複数の部屋に同時に自分が存在することは不可能です。

身体を持つ存在として場所的な限定がある。 部屋Aにいながら部屋Bにも存在することはできない。 a地点を移動するときはa地点のことしか対応できません。 つまり生き物である限り「ルート(経路)的な存在」なのです。

これは視覚と触覚の差異ですね。 視覚は全体を見渡すけれど、触覚は触れている接点に制約される。 たとえば、箱の中に手を突っ込んで「これはなんでしょう?」と当てものゲームをする場合。 そこに視覚と触覚の違いが現れます。

箱の中がタコだとしたら、頭を撫でたり吸盤を撫でたりしながら、触覚は徐々に情報を集め「これは何か」を組み立てます。 答え合わせは「じゃあ、見てみましょう」と箱の中身を目で見ます。 視覚によって「ああ、やっぱり」と確認する。

触覚は能動的です。 もしタコに手を当て、その手を動かさないとしたら、何もわかりません。 押すこともできないなら感触もわからない。 かならず手を動かす。 迷宮であれば足も動かします。 暗闇で目に頼れないなら、移動しないと情報は入ってきません。

動くということは「時間」が生じます。 無時間だと触覚は機能しない。 というか、動くことで人は「時間」を感じます。 見れば一瞬でも、触ると時間がかかるわけです。

言葉はこの「触覚」の延長にあります。 記述することは迷宮を移動することです。 リニアに展開するし、リニアだから「時間」が生じる。

マップ意識

視覚はマップであり、触覚はルートです。 随筆段階で出てくる言葉は迷宮を歩く体験であり、触覚に基づいている。 その体験を振り返ってマップを仕上げるときは視覚を使っています。 ルートの体験からネットワークのマップを作る。

たぶん、生まれつき全盲の人でも「マップ」を持っています。 「次のカドを曲がればコンビニに行き着く」と知っている。 触覚情報を集めても「マップ」は形成される。 それが「意識」でしょう。 意識して行動を計画的に構成できる。 視覚体験がなくても「意識」は作られる。

執筆プロセスは、この全盲の人の体験に似ています。 実際のところ「現実」の全体像は見えていません。 書くことを通して現れる「マップ」を頼りにするしかない。 なのに「マップ」が「現実」である保証はありません。

華厳経全盲の学者たちが集まって象を撫でるエピソードがありますが、あんな感じですね。 触ったところが何かは言えるけれど、それが全体としてどうなのかは言えない。 認識はいつも部分的です。 「神の視点」は現実にはあり得ない。

「現実」に対しては誰でも、その学者たちと同じ立場です。 「これが正解」とはならない。 箱の中のタコを覗く手段はありません。 ブラックボックスになっている。

まとめ

「触覚はルート」と気づいて展開しようと思ったけど、あまり広がりませんでした。

言葉がリニアなのは、ネットワークのままでは「行動」に落とせないからじゃないか。 そう考えたのもあるかな。 一度「現実」をリニアな構造に変換し、その線型性に合わせ「行動」をアルゴリズムにする。 言語がその変換装置になっています。 身体が「一つ」である限り、そして「時間」を生きる限り、この制限がつきまとう。