パラディグマをどう考えるかなあと思いながら「雨の日の心理学」を読んでいて、これがそのまま使えそうに感じました。
その感じが正しいかどうかわからないけど。
雨の日の心理学
後半になると改行も減り、お金の話になって、参考図書に自分の本を売り込んでいる。
うーん、ちゃんと生活できてるのかなあ。 大学の先生、続けてたらよかったのに。 相談室だけでは食べていけないんじゃないかと心配してしまいます。
ともあれ、精神分析の入門書として白眉ですね。 簡潔に体系化されている。 これがそのままパラディグマにも使えるんじゃないだろうか。
対照関係論
とくに「PSポジションとDポジション」が使えそうに思いました。
二項対立に二つのタイプがある。 PSポジションは排他関係です。 白か黒か。 敵か味方か。 二つの項目が分裂していて、どちらかは絶対的に正しくて、反対側は絶対的に悪である。 正論を言いたがる人の思考だし、陰謀論の温床みたいなものです。
それに対し、Dポジションは相補関係です。 白があるから黒があり、黒があるから白がある。 物事には多面性があり、その複雑さをそのまま捉える。 わからないところをわからないまま抱えておく。 器の大きなモードだけど、それに囚われるわけでもありません。
二項関係にはこの二つのポジションがある。 これが循環しています。 あるときは差異を明確にするし、あるときは弁証法的な統合を模索することもある。
この二つの違いは「時間性」かなと思いました。 PSポジションには「不在」がないんですよね。 相手が電話に出てくれないとき「きっと自分のことを嫌っているんだ」と考えてしまう。 「忙しくて時間がないのかな」と考えない。
「プラスかマイナスか」で考えて「ゼロ」が抜けている。 中空構造がない。
パラディグマ
Arc Searchに「パラディグマ」をまとめてもらうと、レヴィ=ストロースの絵画論が出てきます。 本来は時系列に展開する物語を、一枚の絵にまとめようとすると、そこに別時間の要素が組み込まれることになる。
たとえば、観音菩薩はそれぞれの衆生に合わせ、いろいろな方便を駆使して救済しようとします。 それを図像的に表すと「手が千本ある」という奇怪な姿になる。 この感じですね。 絵画や彫像には「時間」がないため、一瞬のうちに全部を圧縮したような表現を採ります。 これがパラディグマ。
神話や物語においても多用されるので、レヴィ=ストロースやロラン・バルトが構造分析に「パラディグマ」を採用しています。 一つの場面に意味づけが重なり合っている。 ポリフォニックな語り。 伏線や心象風景がバンバン練り込まれている。
こうなるとDポジションなのではないかな。
でも絵画は「不在」が描けません。 「神がいない」を表現できないので「悪魔がいる」を採用する。 「悪い存在」を用いて「良い存在の反対」を表す。 それが視覚表現の限界になります。 「不在」をイメージできないので「誰が悪いか」の陰謀論になる。
言語で初めて「いない」を表現できる。 仏教の「空」は図像的に描き表せない。 テキストには「ゼロ」を書き表すための余白がある。 「無記」とか「沈黙」とか。
オブジェクト操作
文章の組み立てにおいて「パラディグマ」は有用です。 PSポジション的に「A/B」の差異を考察し、そこからDポジションの相補関係「A⇔B」を見つけ出していく。 「他者vs自分」の話から始め「相互作用」に視点を移す。 DESCの構造にもなっています。
難しいのは、オブジェクト指向ライティングに落とすとき。 たとえば「センテンスをオブジェクトと見立てる」場合、どんな操作をすることがパラディグマなのだろうか。 それが全然思いつきません。
PSポジションは「いい文章/悪い文章」だろうと思います。 二つ書いて「いい方」を残す。 推敲のときにやっていることです。 あるいは「推す」がいいのか「敲く」がいいのか、と表現の選択をするとき。 それもパラディグマの定義にあることです。
でもDポジションを考えると、そこまで書いた下書きを心に留めながら、それらを止揚する書き方なんですよね。 そういうの、ツールとしたらどうサポートしたらいいのか。 見当がつかない。
画面を二つ開く感じ? あるいは内部リンクや脚注を利用して、一つのセンテンスに他のセンテンスを圧縮していく。 詰め込んであるけれど、表見にはシンプルに表現される。
ああ、俳句かあ。 これは俳句のイメージだわ。
しかし、俳句におけるオブジェクト操作だとすると、とんと思いつかない。 俳句っていったい何をしている言語表現なんだろう?
まとめ
まとまりませんでした。 爆発四散。 ハイクを読むべし。