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「利他・ケア・傷の倫理学」の違和感

最近「利他」という言葉を見かけるようになった。 もしかしたら、そのこと自体に違和感を感じているのかもしれません。

利他・ケア・傷の倫理学

本屋さんで気になったので読んでみました。 ケアの現場についての考察かと思っていたのですが、どうもそうではありませんね。 もっと基礎的なところを哲学的に深める内容になっています。

「利他」や「ケア」という言葉が最近よく使われるが、その内実はなんだろうかと考えていく。 キーワードに「言語ゲーム」を用いることで「ゲーム間の飛躍」を取り出し、他者や多様性について安易な結論に飛びつかないような道筋を探っています。

とくに「叱る」について肯定的に語られることが多いけど、「相手をコントロールしたい」という支配欲なんだから、そこに「ケア」はない。 「ケア」とは「ケアする側の言語ゲームが変わる体験」だ、と。 ここが切れ味のいい指摘だと思いました。

心が傷つく

でも根本的なところがピンと来なかったです。 「道徳的にはAせざるをえないけれど、それは倫理的にどうなんだろう」という論の進め方なのですが、この「A」がわからない。 道徳と倫理を分けるのは倫理学の常道なので、そこは置くとしても、「道徳」とされるところに実感が湧きませんでした。 それはなぜだろう。

たぶん、ある世代から「道徳」が変質してますね。 大平先生の『やさしさの精神病理』で「やさしさの意味が変わってきている」と言われていたけど、変わったあとの世代がいま社会の中心になったのかもしれません。 というのも近内先生が「傷」として挙げる例がことごとく「それでなぜ傷つくのだろう」と不思議に思うからです。

教科書を忘れて授業に出たら、隣の席の子が教科書を見せようかどうか悩んでいる。 そのとき「相手を傷つけないために」寝たふりをしてその場を過ごした。 それを「利他」の例として挙げられても「見せてもらったらいいやん」としか思えない。 これのどこが「やさしさ」なのか、オジサンわかんなかったです。

「心」のイメージが「ガラスか何かの固形物」なんだよなあ。 固くて脆い固体でできていて、衝撃を受けると割れたり砕けたりする。 ここがピンと来ない。

自分自身の体感では「心」は「気の流れ」のような流動体です。 渦を巻いたり淀んだりはするけれど「傷つく」とはなりません。 衝撃があとを引くことはあっても不変ではない。 日本語の用例で「気詰まり」はあっても「気が傷つく」はない。

「傷つく」と言われて連想するのは「家名が傷つく」です。 まだ「イエ制度」が残っていて「イエの名前に泥を塗る」とか言われ、それと戦ってきたのが「私ら」です。

といっても団塊の世代とも違います。 団塊の世代は「マイホームパパ」とか呼ばれ「男は仕事、女は家事」という男尊女卑な価値観を残している。 この世代の人たちは「プライドが傷つく」と言ってました。 元は「男のプライド」というつまらないものです。 そのあと「自己肯定感」と言い換えられても、やはりつまらない。

「イエ」も「プライド」も捨てた世代がしばらくあって、それが「私ら」。 夜の校舎、窓ガラス壊して回った世代。 でもそのあと阪神淡路大震災が起こります。 そこあたりから「トラウマ」が語られるようになった。 「心が傷つく」はその言い換えでしょう。 スクールカウンセラーが急速に認知され、何でもかんでも「傷つく」と言い始める。

そして「心の傷」の時代が到来した。 英語とかでも「I'm hurted」と言うから「傷つく」は外来語的な発想でしょう。 それが社会に刷り込まれることで海外から輸入された「ケア」が効力を持ち始めた。 「毒」をばらまかれてから「薬」が届く。 エビデンスがあって当たり前。 マッチ・ポンプです。 そうした時代を今の人たちは生きている。

近内先生はそこに無自覚なまま「このゲームはおかしい」と言ってるけど、そりゃあ、おかしな「ゲーム」をしてるからですよ。 渦中にいて抜け出せないのが今風だけど、前提がそもそも「特殊」じゃないでしょうか。

ミュトス

今回勉強になったのが「だったことになる」という考え方です。 これはすごいな。 「ケア」の本質をついている。 この感覚は中動態ですよね。 自分自身が変化することは自分自身ではできない。 他者からの呼びかけで「自ずからそうなる」という形を取ります。

長年アリストテレスの『詩学』に出てくる「ヒストリア」と「ミュトス」の違いについて悩んでました。 どちらも「物語」という意味ですが、これをアリストテレスは使い分けている。 ヒストリアは「伝記物」のことです。 ホメロスの『オデュッセイア』のような長編文学を指し「ヒストリー」や「ストーリー」の語源になっている。

ミュトスは「神話」と訳されることもありますが「ミステリー」の語感でしょう。 ギリシア悲劇のプロットを論じるとき「ミュトス」が使われます。 ミュトスはヒストリアにない構造を持ち、それが物語に浄化(カタルシス)をもたらす。 このときポイントになるのが「再認」で、これが何を指すかわからなかった。

「再認」を「だったことになる」と取ると「なるほど」と思います。 ラカンが「ルコネッサンス」と呼び検討しているのも、それが「ケア」の核にあるからですね。 ヒストリアは因果関係の連鎖です。 過去の出来事によって現在の出来事が生じる。 因果応報の固定した「ルールの世界」を生きています。 生きとし生けるものに逃れるすべはない。

対してミュトスではその因果性が逆転します。 現在の出来事によって過去が再解釈される。 「今こうなって気づいたけれど「あのときのアレ」はこのためだったのか」と了解する。 これがギリシア悲劇に埋め込まれている構造です。 説明ではなく了解。

これを「ミュトス」と呼ぶ。 なるほど「伏線の回収」が物語の命。 もう涙無しには見られない。 ミュトスが起きるとき、そこまでの出来事すべてが肯定される。 「なんてこった」もあるし「ああ、良かったね」もあるけど、決して無駄なものは一つもなかった。 物語が癒される瞬間に立ち会う。 それがカタルシスです。 まず物語が救われる。

アリストテレスが「哲学的なのはミュトスのほう」と言うのもうなずける。 バカボンのパパみたいに「それでいいのだ」と世界を言祝ぐ。 たとえ苦しい悲劇であっても「生きてきたこと」自体は肯定できる。 なるほど、長年の謎が氷解しました。

もちろん「現状肯定」ではありませんよ。 人は変化する。 その変化によって「過去」も含めた世界が変化する。 その変化を肯定することです。

まとめ

この本を読んで良かったなあ。 また「私」が変化した。