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『ことば、身体、学び』を学ぶ

ことば、身体、学び

ことば、身体、学び 「できるようになる」とはどういうことか (扶桑社BOOKS新書)
為末 大 他1名
ことば、身体、学び 「できるようになる」とはどういうことか (扶桑社BOOKS新書)

ハードルの為末大選手が言語心理学者の今井むつみ先生に「言葉と身体の関係」について質問をぶつける直球対談。

あらかじめ為末選手が自分の考えを披露し、それをテーマに今井先生に答えてもらおうという企画で、話題自体は想定内だけど、今井先生が博学すぎて、唖然とするくらい面白く転がっていきます。

「わからない」が学びに重要という話なのに、今井先生は「それはね」と全部答えてしまう。 この人の「わからない」は通常レベルじゃないやん。溜息出そう。

ムカデの話

対談の中心は「学ぶとは何か」。 できなかったことができるようになるとはどういうことか。 それを巡ってぐるぐると話が回転していく。 たしかにわからないことだらけ。

伏線となっているのは「ムカデとアリの話」ですね。 たくさんの足を操って歩いているムカデにアリが感心して「それはどうやって歩いているんだ?」と質問する。 ムカデは嬉しくなって「簡単なことさ」と説明しようとするけど、その途端歩き方がわからなくなって動けなくなったという寓話です。

まあ、有名ですよね。 『荘子』の話だったろうか。 言葉にしようとすると、できていたこともできなくなる。 意識すると無意識的にできていたことが崩壊する。 そんなふうに否定的に語られることが多い。

初めはこれが伏線だとは思いませんでした。 軽く触れられただけだったから。 スポーツ選手って究極では身体の知恵に身を任すのだろう、と。 そういう話かと思っていたら違っていた。

為末選手のこの寓話から始まって、今井先生が「あとがき」を書くときにはそのニュアンスが変わります。 その変化を納得するために対談があったと言ってもいい。

通常は経験を積めば積むほど、知識を覚えれば覚えるほど、その分野に習熟すると考えられています。 右肩上がりの一次関数をイメージしている。 「多ければ多いほどいい」という思い込みがある。 スキルを増やすリスキリングも、短時間の情報量を増やすタイパも「学習は増加すること」の思い込みを基にしています。

ところが実験や調査を通して見えてくるのは、習熟が螺旋を描くことです。 何かを身につけるには、まず下手になる時期がある。 できていたことができなくなる。 その時期を通らなければ先に進めない。 通ればムカデもトップスピードで走り出す。

言葉の力

この「下手になる力」が言語化能力です。 メンタルモデルと呼ばれてますが、イメージ思考じゃないですね。 言葉の持つ力。 体験を言葉で捕まえることでイメージが生み出される。 「表象」とも言い換えられています。

表象は映像ではありません。 足の速い選手の動画を見せて「こんな感じにすれば100メートルを9秒で走れます」と言われても、その通りには走れない。 筋肉の緊張を数値のグラフで取り出して「この通りに走りなさい」と言われてもできるわけがない。

為末さんの「車を外から見ても運転手が何をしているかわからない」は絶妙な喩えです。 選手にとって理解できるのは「自分の体感」ですから、そこに接地しないと「わかる」にならない。 それができるのは言葉だけ。 「空き缶を踏みつぶすように」や「みぞおちから足が生えている感じで」と言語化する。 すごいですね。 なんとなく何をすればいいかわかる。 これを、その選手のつまずいているところに合わせ短く伝える。

これぞコーチングって感じ。

まとめ

これも世間知と実践知の関係かな。 言葉にすれば下手になる。 そこが習熟の通り道。

たいていの中学生は分数を「1より小さい」と思い込んでいるのも面白いなあ。 それが普通の「世間知」。 みんな信じているから誰も困らない。 一種のクワス算。

自分はいつ「そんなことないじゃん」と気づいたのだろう?