Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

「意味」がわからなくなりました

A historic Old Testament scroll rescued from the city of Lodz in Poland.|600 Backlink | Photo by Mick Haupt on Unsplash

最近読んだ本

オノマトペから考える言語学オノマトペは「ゴシゴシ」とか「フラフラ」とか、日本語でよく使う表現ですけど、これには身体性が潜んでいます。 同じように、ほかの言語にもオノマトペがあり、それが身体と言葉を結びつけているんじゃないか。

考えると「オノマトペ」はギリシア語由来だから、日本語以外にも存在するのでそう呼ばれているのでしょう。 「オノマ」が「名前」という意味で、onoma → onama → name と変化したわけです。 たぶん「お名前 onamae」もギリシア語由来ですね。 明治時代に作られたのかしら。

あと、身体と言語の関係を言えば、認知言語学がありますよね。 辞書で見てみても、単語の定義には身体的なものと抽象的なもの、そして性的なものが並列して記述されている。 並列しているけど、単語は一つ。 転用などではなく、同じものなのです。

もう一つがコンピュータ関係の本。 脳科学を突き詰めても「こころ」の解明に至らないことを、カテゴリーミステイクの観点から解き明かしています。

そりゃあ、パソコンで考えればわかります。 ハードウェアを分解し、どういう素材で作られているか研究を重ねても、そこで走るソフトウェアの解明には貢献しない。 しかも「こころ」については「どういう意味があるか」という質的側面がある。 その質的側面とは「他の人から見てどうか」とか「他の人にどう影響するか」の他者が介入してくる。 「意味」は脳から導き出せない。

「意味」って?

この二つの本は、それぞれ別の話がメインなんだけど、共通したテーマがあるなあと思いました。 共通していて、素通りされている。 真正面から扱っていたはずが、いつの間にか議論の前提にされている。 それが「意味がある」という表現。

ここにつまずいています。 まず「意味」とはなんでしょう?

この日本語、手強いと思いました。 たぶん、古文には出てきません。 江戸時代以前には見られない。 西洋から輸入された概念だと思います。

ドイツ語の Bedeutung や 英語の meaning の訳語かな。 What do you mean? を「どういうイミ?」と間違えたのか。 「イミ? イミとはなんぞ?」で、音から「意味」が発明された。 でないと「味」の出所がわかりません。

その心は?

ともかく、「意味」と言われ「ああ、あれか」と思い当たるものはあった。 「意味」は「意(こころ)の味わい」ですから「なるほど」と。 落語の大喜利で「○○とかけて□□と解きます」「おや、そのこころは?」と問いかけるのと同じじゃないか。 この「こころ」は「意味」のことです。

もう少し詰めると、句会で言う「こころづけ」ですね。 句会では数人のメンバーで俳句を作っていきます。 ターン制です。 前の人が詠んだ句に対して、そのニュアンスを汲みつつも、別の情景でもって答える。 代わり番子に句を詠んでいく。

連歌と違って、俳句では季節の連続性を無視して構わない。 句の「こころ」が合っていれば「こころづけ」として成立する。 この「こころ」が「意味」のことです。

無意味

早い段階で日本人は「意味」という言葉を習得することができた。 すでに、その概念に近いものを言語体系に持っていたからでしょう。

たとえば「non sense」を「無意味」と訳しても、意味が取れるようになった。 「ナンセンス」を「無感覚」と訳していたらピッタリ来なかったハズ。 でも「無意味」なら、初めて聞く人にも伝わった。 「ナンセンスとはそういう意味か」と。 「それだと大喜利が成立しないよ」みたいな感覚として、わかった。 「それは意味がない」という表現が他の人にも伝わった。

意味は身体性だろうか

「ナンセンス」の「センス」は身体感覚です。 だから、意味が成立するには「感覚」に根ざしている必要がある。 身体と接地しているところが薄くなればなるほど「意味がわからない」と言われる。 「なんの意味があるの?」と問いただされる。

英語の meaning は「つもり」です。 I mean that 〜 で「こういうつもりですけど」と意図を明かす。 「作者の意図を答えよ」の答えが meaning になる。 でも「作者の意味を答えよ」とは訊かない。 どこかで「意味」が meaning ではなくなっている。

たぶん「味」が付いているからでしょう。 sense に近いものを取り込んでいる。 「意図」という意識的なものを超えて、発言者の身体性も含まれている。 乳児の頃、言葉と初めて出会ったときヘレン・ケラーのように衝撃を受け、身体に言葉が刻み込まれた。 その「味」が残っている。 日本独自の「意味」という概念が生まれた。

味な真似をする

なので「意味」には「味わい」がある。 味わうに値するし、ある種の風情がある。

ところで気になったのが「味な真似」かなあ。 ニンジャもので追手が追跡しているとき、途中でケムに巻かれてしまう。 「かような術を?! なかなか味な真似をしよる」というセリフがあるとして、この「味な真似」。 何かの真似をしてるわけじゃないから「真似」っておかしく感じるけど、これはどんな意味なのだろうか。

もしかしたら「真似」は「招く」の名詞化で「何かを自らに憑依させる」なのかもしれない。 心霊的なものと同一化し、そのものに成りきったような行動を取ること。 それを「真似」と呼ぶのではないか。 そう仮説を立ててみる。

そういう説明を聞いて「なるほど」と思うなら、それが「意味」です。 合っているかどうかはわからない。 けれど体感として「ああ、あれか」を呼び起こすことができたなら、そのふたりの間に「意味」が成立する。 成立しないと「意味がない」と却下される。 この「意味」の領域は、たしかに言葉にとって基礎的だし、心の問題についても必要不可欠で、脳だけでは導き出せない。 意味不明になってしまう。

まとめ

そうは言っても「意味とは何か」に答えた感じがしないんですよね。 難しい。